2.26 その6
青年将校の多くは妻帯者であり、子供がいる者も数多くいた。このへんが地下鉄サリン事件のオウム真理教信者とは異なるところである。オウム信者は、初めから家族を切り離していたのに対して、2.26事件の当事者たちには、家庭があり、家族があり、妻があり、子があった。結婚後、僅か半年しかたっていない者や、なかには数週間という者もいた。ほとんどの者たちが、新婚数年から数ヶ月の者ばかりであった。そして夫たちは、自己の信念に従って死んでいったが、主に20代の彼女たちは、反逆者の妻としてその後の人生を生きていかなくてはならなくなった。
澤地久枝著『妻たちの二・二六事件』中公文庫(1975)を読み、昭和維新を掲げ、政府要人を殺害し、逆賊として処刑されることでその生を終えた男たちよりも、さらに過酷な人生をその後生きていった女性たち人生のことを知った。決起した将校たちは刑務所の中で、愛する妻への愛着を手記や手紙に書き残している。彼らは、残されることになる妻や子の身の上を案じていた。妻たちにとって、死を直前にした男からの愛の言葉が、その後の長い人生を生きていく力を得る者もいれば、それが枷のようになって、その後の人生につきまとっていた者もいた。
残された未亡人の中で、再婚して、新しい人生を歩んだ者はいかなったという。澤地久枝は、こう書いている。「愛されるとは、辛いことである。二・二六事件の妻たちが、長い年月、夫の思い出を捨てきれず、事件の影をひいて生きてきたひとつの理由は、死に直面した男の切々とした愛の呼びかけが心にからみついているためである。短い蜜月と死にのぞんでの愛情の吐露、それは妻たちにとっては見えない呪縛となった。」
これは戦前の日本だから、当時の女性はそうだったとも言えるかもしれない。平成の今の女性は、もっとドライなのだという声もあるかもしれない。しかし、少なくとも彼女たちはこうであった。「再婚話はありましたが、死んだ夫があまりにもいい人だったので、そんな気になれませんでした。」とある夫人は語る。「その後」の人生が辛かったとか、不幸であったとかは語らない。この夫人は、わずか十ヶ月の結婚生活であった。その後、何十年もの歳月がたった。この長い期間の間、新しい人生に歩み出す機会はあったであろう。しかし、そうすることなく、ある者は、夫の母親と共に長い年月を過ごし、またある者はあとに残った子供たちを育てていった。誰もが、それぞれの「その後」の人生を歩み、歳を老いていった。それは妻だけではなく、母親もまたそうであった。ある母親は、我が子が陸軍幼年学校の受験に受かって喜んだ日のことを思い出すだびに、あの子を軍人の道に進ませることがなければ、こんなことにはならなかったのにと悔やむという。
ある人生の風景がある。
大蔵大臣高橋是清を殺害したのは、近衛歩兵第三連隊の中隊長代理の任にあった中橋基明中尉である。(この高橋是清を殺害しなくてはならなかったということが、どう考えても私には理解できない。)彼の恋人は、四谷大木戸の料亭の芸妓であった。もともと、女医になる夢を持って女学校に通う女学生であったが、父親がある人の保証人の判を押したことから刑事事件に巻き込まれ、犯罪者になろうとした父親の窮地を救うため、彼女は芸者に売られた。花柳界に身を転じて、最初の男性が当時は少尉であった中橋基明であったという。彼は独身であった。結婚の約束はなかったという。軍隊では、将校の結婚は相手の身辺調査がある。どこかの養女ということにして、結婚をしようと言っていたという。事件の後、正式な妻でもなく、芸妓である分を考えると、収監された中橋中尉の消息を知ろうと、中橋家を訪れることをはばかる気持ちがあった。処刑を知った夜、死にたいとは思うが、面倒を見なくてはならない親や弟のことを思うと死ぬこともできず泣いたという。小さな祭壇に中橋の写真を置き、その前で娘時代からのばしてきた長い髪を切った。その髪を、見知らぬ人に中橋家の通夜へもっていってもらうよう頼んだ。
その後、まもなくして座敷に出ることが耐えらない精神状態になる。一年ほど座敷を休んでいる時、世間では、処刑の後、「あんな立派な人たちを殺すわけがない。実は青年将校は、全員生きていて満州にいる」「中橋中尉は南京で暮らしている」という噂が流れた。この噂は、彼女の沈んだ心を揺り動かした。昭和16年、彼女は慰問団の一員になって、中国大陸をめぐり南京へ向かう。澤地久枝は、ここを情感的な表現でこう書いている。
「城壁の彼方に紫禁山が聳え、おりから夕焼けの茜色が四界を燃えたたせはじめていた。南京に来るまでの行程で、噂は噂に過ぎないことを悟らされてはいた。しかし、南京の夕陽に向かって、心は勝手な想いを描く。「なにをしていてもいい、どうか何処かに元気で生きていてほしい。中橋さん、生きていてほしい」と祈って、夕焼けが濃藍の夜に消えるまでひとときを立ちつくした。」
戦中、戦後と苦労をしてきた。芸者をやめてから、ある人の後添えになり、流産までしたが、愛情の湧かない相手との結婚生活は続かなかったという。終戦後、人形町で料亭をやるようになった。この人は、今でも中橋中尉の写真を大切に身につけている。年老いた今、中橋中尉に似た人を見かけると心が騒ぐが、その似た人は昔の中橋の年頃のままだという。この人の人生で、中橋中尉と過ごしたのはわずか4,5年であった。あの頃から、時だけがたっていて、この人は中橋中尉との出会いと共に「その後」の辛い人生を歩んできた。もし、昭和11年のあの日の夜、中橋に会っていたら、この人は生きてはいなかっただろうと語る。
2.26事件は、その後の日本の行く末に大きく関わる出来事であったと共に、残された人々の運命を大きく変える出来事だった。そして、そのことを知ることなく青年将校たちは死んでいった。「その後」の時の流れの中では、彼らはいつまでも「青年」将校のままである。その姿に向かって、年老いた女性たちは、ある者は恨み、ある者はあきらめ、ある者はなつかしく想う。それらの人々の思いも、歴史の一陣の風韻になっていく。澤地さんの本は、もうかなり昔の本なのだ。この本が書かれた時から、さらに長い時がたった。平成17年の今日、2.26事件のことを振り返る者はいない。それも、そうしたものだと思う。
時折、誰かが、その風の音に耳を澄ますだけだ。
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