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February 2005

February 27, 2005

2.26 その6

 青年将校の多くは妻帯者であり、子供がいる者も数多くいた。このへんが地下鉄サリン事件のオウム真理教信者とは異なるところである。オウム信者は、初めから家族を切り離していたのに対して、2.26事件の当事者たちには、家庭があり、家族があり、妻があり、子があった。結婚後、僅か半年しかたっていない者や、なかには数週間という者もいた。ほとんどの者たちが、新婚数年から数ヶ月の者ばかりであった。そして夫たちは、自己の信念に従って死んでいったが、主に20代の彼女たちは、反逆者の妻としてその後の人生を生きていかなくてはならなくなった。

 澤地久枝著『妻たちの二・二六事件』中公文庫(1975)を読み、昭和維新を掲げ、政府要人を殺害し、逆賊として処刑されることでその生を終えた男たちよりも、さらに過酷な人生をその後生きていった女性たち人生のことを知った。決起した将校たちは刑務所の中で、愛する妻への愛着を手記や手紙に書き残している。彼らは、残されることになる妻や子の身の上を案じていた。妻たちにとって、死を直前にした男からの愛の言葉が、その後の長い人生を生きていく力を得る者もいれば、それが枷のようになって、その後の人生につきまとっていた者もいた。

 残された未亡人の中で、再婚して、新しい人生を歩んだ者はいかなったという。澤地久枝は、こう書いている。「愛されるとは、辛いことである。二・二六事件の妻たちが、長い年月、夫の思い出を捨てきれず、事件の影をひいて生きてきたひとつの理由は、死に直面した男の切々とした愛の呼びかけが心にからみついているためである。短い蜜月と死にのぞんでの愛情の吐露、それは妻たちにとっては見えない呪縛となった。」

 これは戦前の日本だから、当時の女性はそうだったとも言えるかもしれない。平成の今の女性は、もっとドライなのだという声もあるかもしれない。しかし、少なくとも彼女たちはこうであった。「再婚話はありましたが、死んだ夫があまりにもいい人だったので、そんな気になれませんでした。」とある夫人は語る。「その後」の人生が辛かったとか、不幸であったとかは語らない。この夫人は、わずか十ヶ月の結婚生活であった。その後、何十年もの歳月がたった。この長い期間の間、新しい人生に歩み出す機会はあったであろう。しかし、そうすることなく、ある者は、夫の母親と共に長い年月を過ごし、またある者はあとに残った子供たちを育てていった。誰もが、それぞれの「その後」の人生を歩み、歳を老いていった。それは妻だけではなく、母親もまたそうであった。ある母親は、我が子が陸軍幼年学校の受験に受かって喜んだ日のことを思い出すだびに、あの子を軍人の道に進ませることがなければ、こんなことにはならなかったのにと悔やむという。

 ある人生の風景がある。

 大蔵大臣高橋是清を殺害したのは、近衛歩兵第三連隊の中隊長代理の任にあった中橋基明中尉である。(この高橋是清を殺害しなくてはならなかったということが、どう考えても私には理解できない。)彼の恋人は、四谷大木戸の料亭の芸妓であった。もともと、女医になる夢を持って女学校に通う女学生であったが、父親がある人の保証人の判を押したことから刑事事件に巻き込まれ、犯罪者になろうとした父親の窮地を救うため、彼女は芸者に売られた。花柳界に身を転じて、最初の男性が当時は少尉であった中橋基明であったという。彼は独身であった。結婚の約束はなかったという。軍隊では、将校の結婚は相手の身辺調査がある。どこかの養女ということにして、結婚をしようと言っていたという。事件の後、正式な妻でもなく、芸妓である分を考えると、収監された中橋中尉の消息を知ろうと、中橋家を訪れることをはばかる気持ちがあった。処刑を知った夜、死にたいとは思うが、面倒を見なくてはならない親や弟のことを思うと死ぬこともできず泣いたという。小さな祭壇に中橋の写真を置き、その前で娘時代からのばしてきた長い髪を切った。その髪を、見知らぬ人に中橋家の通夜へもっていってもらうよう頼んだ。

 その後、まもなくして座敷に出ることが耐えらない精神状態になる。一年ほど座敷を休んでいる時、世間では、処刑の後、「あんな立派な人たちを殺すわけがない。実は青年将校は、全員生きていて満州にいる」「中橋中尉は南京で暮らしている」という噂が流れた。この噂は、彼女の沈んだ心を揺り動かした。昭和16年、彼女は慰問団の一員になって、中国大陸をめぐり南京へ向かう。澤地久枝は、ここを情感的な表現でこう書いている。

「城壁の彼方に紫禁山が聳え、おりから夕焼けの茜色が四界を燃えたたせはじめていた。南京に来るまでの行程で、噂は噂に過ぎないことを悟らされてはいた。しかし、南京の夕陽に向かって、心は勝手な想いを描く。「なにをしていてもいい、どうか何処かに元気で生きていてほしい。中橋さん、生きていてほしい」と祈って、夕焼けが濃藍の夜に消えるまでひとときを立ちつくした。」

 戦中、戦後と苦労をしてきた。芸者をやめてから、ある人の後添えになり、流産までしたが、愛情の湧かない相手との結婚生活は続かなかったという。終戦後、人形町で料亭をやるようになった。この人は、今でも中橋中尉の写真を大切に身につけている。年老いた今、中橋中尉に似た人を見かけると心が騒ぐが、その似た人は昔の中橋の年頃のままだという。この人の人生で、中橋中尉と過ごしたのはわずか4,5年であった。あの頃から、時だけがたっていて、この人は中橋中尉との出会いと共に「その後」の辛い人生を歩んできた。もし、昭和11年のあの日の夜、中橋に会っていたら、この人は生きてはいなかっただろうと語る。

 2.26事件は、その後の日本の行く末に大きく関わる出来事であったと共に、残された人々の運命を大きく変える出来事だった。そして、そのことを知ることなく青年将校たちは死んでいった。「その後」の時の流れの中では、彼らはいつまでも「青年」将校のままである。その姿に向かって、年老いた女性たちは、ある者は恨み、ある者はあきらめ、ある者はなつかしく想う。それらの人々の思いも、歴史の一陣の風韻になっていく。澤地さんの本は、もうかなり昔の本なのだ。この本が書かれた時から、さらに長い時がたった。平成17年の今日、2.26事件のことを振り返る者はいない。それも、そうしたものだと思う。

 時折、誰かが、その風の音に耳を澄ますだけだ。

February 26, 2005

2.26 その5

 2.26事件のその日となったが、仕事が忙しくて文章を書く時間なし。

 26日未明の今、昭和11年の今頃は、青年将校たちは決起の行動を開始していたであろうが、深夜帰宅で疲れ果てた私は、ぼおおーと、DVDで『機動警察パトレイバー2』を見ている。やはり、この時期はこれを見なくてはならないだろう。もはや何回見たのか覚えていないが、なんど見てもいい作品はいい。五社英雄監督の映画『226』は、数ある2.26事件の映画の中でベストであるが、それとは別に押井監督の「二課の一番長い日」と、この『機動警察パトレイバー2』もまた「2.26事件の映画」の中に含まれるべき作品だと思う。うううっ、明日の六本木ヒルズでの押井さんの「押井守<戦争>を語る」にも行けそうもない。あー残念。


February 24, 2005

オーストラリアに「守られる」日本の軍隊とはいかがなものか

小泉総理は、オーストラリアのハワード首相に自衛隊の警護を要請した。

あそこって、安全だと言ったのは誰だったっけ?なにゆえ、警護が必要なの?
自衛隊は、ふっこうしえんに行っているのではないの?
そこまでして、なんで、今ふっこうしえんをしなくちゃならないの?

2.26 その4

 首相官邸、陸相官邸、陸軍省、そして参謀本部を占領した決起部隊の青年将校たちは、午前5時頃、陸相官邸で陸軍大臣に面会を求め、時の川島陸相はこれに応じた。この陸相官邸に真崎甚三郎大将が現れ、青年将校たちに「お前たちの心はよおっくわかっとる」と告げたという。真崎は2.26事件の黒幕とも言われる人物で、青年将校たちの精神的支えでもあった。これに対照的だったのか、この時、同じく陸相官邸にいた参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐である。石原は、最初から彼らは反乱部隊であるとし、断固としてこれを鎮圧するつもりであった。

 2.26事件がややこしいのは、これは青年将校が起こしたテロ事件であっただけではなく、陸軍のある一派は、この事件を契機として国家の主導を陸軍が握ろうという思惑があったということである。この青年将校の起こした事件に対して、陸軍内部には大別すると次の3つの反応があった。一つめは、青年将校への同調があるというグループ、二つめは反逆者として断固討伐すべきであるというグループ、三つめはそのどちらでもない中間であり、どちらかといえば青年将校たちに対して同情心があるグループである。彼らは、青年将校を「決起部隊」と呼び、称賛していた。軍事参議官の真崎大将や荒木貞夫大将といった「皇道派」が第一のグループであり、川島義之陸相や堀丈夫第一師団長などは、第三のグループであった。このふたつのグループに真っ向から反対したのが、石原大佐のような参謀本部の将校たちであった。

 戦前の日本軍(ここでは陸軍を考える)は、日本国の政体の中で、天皇を頂点とする独立した組織体であった。この組織は大別すると、政府や内閣の決定事項を遂行する軍政面を担当する陸軍省と、作戦の企画・立案といった軍令面を担当する参謀本部の二つに分けることができる。陸軍大臣は、あくまでも内閣の一員であるが、軍令は天皇の統帥権に基づくものであり、統帥権は内閣からも軍政からも独立していた。つまり、戦前の日本は、あたかも二重の政府(その中心は、陸軍省軍務局と参謀本部作戦課)の国家だった。ちなみに、陸軍大臣が内閣の一員であるというのも、あくまでもタテマエであって、これもまた統帥に関わる事項は、内閣とは別に判断ができるとされていた。とにかく、軍隊は法律に縛られることはない、天皇直属の組織なのだというわけである。

 しかしながら、明治憲法に天皇が陸海軍を統帥すると記載されていると言っても、では本当に実質的に、天皇が軍隊を統帥しているのかといえば、当然ながらそんなことはまったくない。さらに言えば、昭和天皇のご専門は生物学であった。生物学者に、軍隊は動かせないであろう。つまり、統帥権だなどと言いながら、実際に天皇が軍を統率したのは、古代の大和朝廷の頃か、せいぜい14世紀に鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇ぐらいであろう。しかし、この時でさえ、実際に軍を動かしていたのは、足利尊氏や新田義貞や楠木正成であって後醍醐帝ではない。そう考えてみれば、東京帝大の美濃部達吉が提唱した「天皇機関説」は、まったく正しかったわけであるが、これが1930年代に国体論争を巻き起こし、政府と軍部はこれを徹底的に否定した。このことにより、美濃部は東京帝大の教授の職を辞することになる。昭和10年、陸軍の教育総監になった渡辺錠太郎大将は、美濃部達吉の「天皇機関説」はとりたてて間違っていないという趣旨の発言をしたところ、全国の連隊から抗議の手紙が殺到したという。渡辺教育総監は、2.26事件で襲撃され、青年将校たちによって殺害された。

 戦前の日本では、軍隊は国民の生命・財産を守るものではなかった。軍隊とは、天皇の軍隊であった。参謀本部にとって命令体系は絶対のものであり、軍の行動は天皇の裁可がなくてはならない。ところが、今回のテロ事件は、中隊長クラスの大尉や中尉といった連中が、勝手に(陛下の)軍隊を動かしたということになる。これは参謀本部にとって受けいれることは断固できなかった。参謀本部の石原が思ったように、彼らは「反乱部隊」なのである。

 しかしながら、2.26事件より前の昭和6年に、この石原本人自身が、関東軍参謀として満州事変を画策したが、当然のことながら、昭和天皇はそんなことを聞いていない。参謀本部は、戦争の拡大を望まなず、英米との争いは避けよと命じていた昭和天皇の意思をことごとく無視し続け、結局、アメリカとの戦争になった。つまり、参謀本部は「統帥権」を自分たちの都合のいいように使っていただけであって、大日本帝国陸軍が天皇の軍隊であるとは、本心ではまったく思ってはいなかったのである。

 2.26事件の青年将校たちは、少なくともその1点だけは、まぎれもなく純粋だった。自分たちの行動は、天皇の大見心にそっていると信じてきた青年将校たちが、この事件に対して、陛下は激怒したということを知った時、彼らはそれでも天皇を疑うことはできなかった。天皇を疑うことは、自分のこれまでの人生そのものを疑うことであった。もちろん、彼らの天皇に対する考え方と、彼らが行った行動には破綻しているところがある。また、青年将校たちが天皇をどう思うとも、この時、昭和天皇のとった態度は当然のものであった。しかし、彼らはそうは考えることはできなかったであろう。自分たちが行ったことは、正しいことだったと信じていた。処刑になる刑場での、彼らの最後の言葉は「天皇陛下万歳」であったという。

 そして、この後、陸軍内部の「皇道派」との政治闘争に勝利した参謀将校の「統制派」は、日本を国家的な総動員体制による軍部統制社会へと変えていく。

February 22, 2005

2.26 その3

 決起した青年将校たちは、1920年代から30年代にかけてその思想を形作っていた。彼らが考えていたことは「昭和維新」である。須崎慎一著『二・二六事件』吉川弘文館(2003)によれば、彼らが「昭和維新」を考える契機になったのは、次の4点だったという。

(1)陸軍、及び陸軍士官学校内の腐った空気への反発
(2)対外意識
(3)庶民の窮状への反発と共産主義への脅威感
(4)時流、政党政治、金権政治、日本人のあり方への反感

 上記(2)の対外意識について少し解説したい。第一次世界大戦は、それまでの戦争の姿を一新するものであった。この戦争で、軍事技術は飛躍的に進歩し、飛行機や戦車や潜水艦など、それまで実験的な兵器であったものが本格的な兵器として戦場に出現した。さらに重要なことは、それまでの戦争が戦場で行われるものであったの対して、この戦争では社会全体がひとつの戦争機械になり、国家の生産力を戦争目的に転化するという国家総動員体制の戦争になったということである。日露戦争当時は、世界のトップクラスの軍隊であった日本陸軍は、第一次世界大戦後は三流の遅れた軍隊でしかありえなかった。これに危機感を持った軍部は、陸軍の近代化をめざす。

 陸軍大臣宇垣一成は、師団を削減し、余剰の将校をリストラし、その予算を陸軍の軍備拡張に用いるという陸軍改革の構想を立てた。いわゆる、宇垣軍縮である。軍縮といっても平和的な意味での軍縮ではなく、むしろより軍事化するための軍縮であった。しかしながら、これがその思惑通りにはいかなった。軍備の近代化にはカネがかかる。その予算を政府が出さなかったのである。

 1914年に起きた第一次世界大戦は、それまでの戦争と比較してあまりに凄惨な戦争であった。そのため、この戦争が終わった時、人々はもう二度と戦争はしたくないと痛感し、さまざまな軍縮を行った。1920代始めのワシントン軍縮会議やロンドン軍縮会議により、海軍の軍艦や巡洋艦は国際的な条約のもとで所有を制限されることになる。カンタンに言えば、お前の国は軍艦は何隻まで、駆逐艦は何隻まで所有してよいという取り決めのことだ。そうすることによって、どの国も過剰な軍備を持つことはやめようというわけである。当然のことながら、海軍はこれに同意するわけがなかったが、とりあえずこれが通ってしまったということに、当時の人々の平和への強う望みがあったことがわかる。人々は、もう戦争に倦み、平和を望んでいた。(その人々が、後に第一次世界大戦よりもさらに悲惨な第二次世界大戦を始めることになるのは、人の世の矛盾であるとしか言いようがない。)

 そうした時代背景の中で、宇垣は師団4個を廃止することによって、歩兵16個連隊、騎兵4個連隊、野砲兵4個連隊、工兵4個連隊、輜重兵4個連隊をなくし、約3万人の将兵をリストラし、近代的な装備の充実をはかろうとした。しかしながら、結果としてさほどの軍備拡張ができたわけではなかった。例えば、1個師団あたりの野砲の数は、日露戦争の当時よりも少なかったという。これでは、とても近代戦などできるものではなかった。ようするに、近代軍隊はカネがかかるのである。陸軍の首脳部が欧州の戦線を視察し、これからは火力を中心にした近代兵器の時代だと意気込んでも、実際の日本の国力では第一級の軍隊を持つことはできなかったのである。つまりは、宇垣軍縮は文字通りの、本当の「軍縮」になってしまった。

 これには、陸軍は危機感を感じた。多少なりとも国際的な出来事に関心がある者ならば、国際的な平和主義などうわべだけのことで、中国をめぐる欧米諸国の動きには警戒が必要であると考えていた。国内では、急速に台頭しつつある社会主義運動が最大の懸案であった。銀座にモダンガールやモダンボーイなる者たちの姿が目立ち、繁栄と享楽に浮かれた人々の姿がある反面、農村部では恐慌の影響を強く受け、人々は貧困に喘ぎ、娘の身売りが続出していた。

 青年将校たちは、陸軍士官学校卒という、当時の若者の中で恵まれたコースを歩む者たちだった。ある者は、陸軍幼年学校卒ですらあり、陸大受験を間近に控えた者もいたという。その一方で、彼らは「純粋まっすぐ君」だったと思う。この社会の現実に対して、やり場のない憤りを感じる者たちだった。良くも悪くも、知的でナイーブな若者が社会の現実に直面すると、その現実を容認するか、あるいは現実を否定し、引きこもるか、革命をめざすか、宗教に走るかのいずれかになるものであるが、と同時に、彼らのアイデンティティは帝国陸軍軍人であった。

 昭和前期の時代は、民主主義の社会であった。財閥や軍閥があったとはいえ、大衆が社会の主体であった。マスコミが国民世論を形成し、世論が政治に大きく介入した。軍縮もその世論の声であった。しかし、世論は社会の現実を見ようとしていなかった。社会の現実の格差が、社会主義運動をますます大きくさせ、世界的な経済不況が資本主義社会の未来を悲観させていた。おそらく、青年将校たちは、そうした大衆(あるいはマスコミ)主導型の社会の本質的な問題を感じていたのではないかと思う。デモクラシーは、ファシズムにもコミュニズムにもなりうる危険性をはらんでいるということを、1930年代に彼らは理解していたのだ。

 そして、彼らは、天皇は国民のこの惨状を知らないのだと考えた。日本は天皇が統治する国家であり、天皇は絶対善である以上、今の社会が暗澹たるものであるのは、統治者である天皇が悪いのではなく、その取り巻き連中が私利私欲に走り、天皇に国民の本当の姿を教えていないのだと考えた。もし知っていれば、絶対善である天皇がこのような世の中を望むわけはない。よって、君側の奸を排除しなくてはならないと考えた。

 この、一面では時代の本質を見抜く知性があり、しかしながら、ある一面では稚拙な思考があるというのは、これもまた良くも悪くも「純粋まっすぐ君」の思想だった。

February 14, 2005

2.26 その2

 渋谷区宇田川町28番地、ここに旧陸軍の刑務所があったことを知ったのは、高橋正衛著『二・二六事件』中公新書(1965)からである。ここに2.26事件の青年将校たちが抑留され、ここで特設軍法会議が開かれ、ここで反逆者として処刑された。

 昭和40年、遺族たちによりここに慰霊像が建てられたという。そのことを知った僕は、その場所に行ってみたいと思った。住所からネットで地図を検索すると、なんと渋谷の駅前から少し入ったところなのである。あの渋谷に、戦前には軍の刑務所があったというのは、少し衝撃的だった。確か、渋谷が今の姿になったのは、西武セゾンがあそこにパルコを作ってからだったと思う。それにしても、あの渋谷に、である。

 実は、先日、宇田川町28番地って、こっちの方だよなという感じで、渋谷のブックファーストあたりをうろついてみたのであるが、結局どこにあるかわからなくて、この時はそのまま引き上げた。そこで、今日、13日の日曜日は、慰霊像がどこにあるのか十分に調べてから渋谷へ行こうと思った。渋谷税務署の交差点の角にあるようだ。では、渋谷税務署ってどこにあるのか。NHKの前のようだ。そーか、とゆーことは、とにかく公園通りをまっすぐ歩いて行って、NHKに出たら曲がればいいんだな、とおおざっぱに方向を定めて、渋谷駅へと向かった。

 渋谷駅から公園通りを歩く。それにしても、ホンマにここに軍の刑務所があったのかと思う。信じられない程、変わってしまったということなのだろう。2.26事件だけではなく、太平洋戦争で死んでいった若者たちは、自分たちの愛する日本の国土と日本人を守るために死んでいった。あれから半世紀以上たって、その国の後の世の若者が集まっているこの場所を、彼らが見たらなんと思うであろうか。あまりにも時間と空間が異なり過ぎている。

 途中、またもや場所がわからなくなる(実は、方向音痴?)。しかし、だからと言って、道行く人に「2.26事件の碑はどこでしょうか」と聞くわけにもいかず(2.26事件って、ナニ?、と言われそうなので)、きっとこっちの方だろうと、どんどん歩いていったら NHK放送センターに出た。そこで税務署はわかったのであるが、慰霊像がどこにあるのかわからない。エキストラの撮影待ちなのか、数多くのワカイモンがNHKの裏口(?)前の路上で集まっている。ケータイに「あたし、これから仕事なの」と言っている若い女の子もいる。うーむ、どうしたものかと、なおも若者たちの間を横切って歩き、税務署の角を曲がろうとしたら、その角地に「2.26事件慰霊像」と書かれた碑が建っているではないか。ここだ。

 デジカメで慰霊像を撮っていたら、道向こうのNHK放送センターの裏口(?)の前に立っていたお巡りさんが、なんとなくこっちを見ているようであった。いや、あのお巡りさんが公安とも思えんな。しきりに写真を撮っている僕の近くには、なにかのエキストラ(?)の若者が何人かいたのであるが、僕がなにを撮っているのかということには無関心のようだ。慰霊像の前には、今でも供養のせわをしている人がいるのであろう、きれいな花が置かれていた。

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 慰霊像から渋谷駅へ戻る道すがら、ここはよく知っている場所であったことに気がついた。HMVが以前にあった場所の、さらに(渋谷駅から見て)奥に、中南米民芸店の「チチカカ」というお店があって、その昔、会社の帰りなどに、この店をよく覗いていたものだった。このへんには中古のレコード屋も多い。それらの店から、さらに奥に50メートル行った場所に、2.26事件の慰霊像はあったのだ。つまり、僕もここに軍の刑務所があったことは、まったく知らずに酒を飲んだりして、遊び惚けていたのだ。僕もまた、あの無関心な若者たちと同じだった。今、この歳になって、もう渋谷では飲むことはまったくなくなって、こうして神妙な顔をして2.26事件の慰霊像を訪ねている。

 今、この場所には、あの時代とはまったく違う時間が流れている。

February 13, 2005

北朝鮮の核兵器は使い物になるのか

 北朝鮮が核兵器の製造・保有を初めて公式に宣言したという。このへん、明確な知識と情報があって書いているわけではないが、北朝鮮は本当に兵器として使い物になる核兵器を作ったのだろうかという疑問がある。13日の日曜のNHKの午前9時からの「日曜討論」を見ていて、北朝鮮が核兵器を持った、さあ、たいへんだ、自衛隊法を変えなくてはならないという会話を政治家のみなさんがしているのだが、そもそも「北朝鮮の核兵器って使いもんになるのか」という疑問がふと浮かんできた。

 「核兵器がある」ということは、「核爆発を起こすことができる爆弾がある」ということではない。この程度のものならば、そのへんのしかるべき設備があって、しかるべき専門知識を持った人ならばできそうな気がする。しかしながら、兵器であるのならば、起爆装置も含めた制御系とか、ミサイルであるのならば誘導系のシステムが必要であるはずだ。この部分はエレクトロニクスのカタマリであり、そうとうの技術力がなくてはできない。例えば、攻撃目標が東京だとして、東京に見事命中できる精度を持った弾道ミサイル・システムを北朝鮮は持ったということなのだろうか。

 東京に命中させることはできなくたって、新潟に落ちるかもしれないではないかという意見もあるかもしれないが。戦争で破壊する目標というのは、ある戦略なり戦術なりに基づくものであって、どこに当たるかわかりませんでは攻撃はできない。人口の過疎地の山の中に、ミサイルを落としても意味はないのである。特定の都市部に、ミサイルを命中させなくてはならないのだ。制御できない兵器は、兵器ではない。弾道ミサイルの発射実験では、弾頭が日本列島を越えて太平洋側へ着弾したというが、あの程度の「実験」で軍事兵器としての信頼性OKになるとはとても思えない。あれは、あくまでも「実験」であろう。しかし、実戦では「太平洋側へ着弾した」では日本との戦争にならない。広島と長崎にB29が上空から原爆を投下した時代ならいざ知らず、今の時代の弾頭ミサイルの命中精度はものすごいものがある。実験で太平洋側の海上を狙ったというならば、船舶か島のような、ある特定の目標物が定まっていて、それに対して誤差数キロ以内で命中しなくては話にならない。つまり、それだけ制御系や誘導系の技術が進歩しているということである。現代の兵器は、爆発力・破壊力・殺傷力の技術もさることながら、こうした方面の技術が重要になっている。

 さらに、北朝鮮が核ミサイルを作ったとして、だ。北朝鮮がパキスタンやリビアやイラン、あるいはテロリストに核ミサイルを売ることもありうると言うが、あんた、メイド・イン・ノースコリアの核ミサイルを使おうと本気で思いますかと言いたい。品質に信頼が持てるのであろうか。もし輸送途中とかで事故とか起きたらどうするのか。危なくて使えないではないか。今どき、誰が「太平洋側へ着弾した」だけの「兵器」を買うだろうか。

 この程度で、アメリカに対抗するために核兵器を持ったと北朝鮮は本気で言っているのならば、お笑いであるとしか言いようがない。ようするに、北朝鮮の核兵器保有はブラフである。

February 12, 2005

2.26 その1

 いつの頃からか、8月になると15日のことを考えるように、2月になると(14日ではなく)(笑)26日を考えるようになった。2月26日とは、もう70年ぐらい前の2月26日の東京で起きたある出来事のことである。

 昭和11年(1936年)の2月26日未明、陸軍の主に歩兵第一連隊、第三連隊、そして近衛歩兵第三連隊の将校が兵を指揮し、岡田総理を殺害し(後に、岡田総理は無事と判明する)、斉藤内大臣、高橋大蔵大臣、鈴木侍従長、渡辺教育総監を殺害(鈴木侍従長は重傷ながら一命をとりとめる)した。さらに、警視庁、陸軍省、参謀本部、東京朝日新聞社等を占拠した。この事件により、第一師団は戦時警備体制になり、東京市(この当時は「東京市」と言われていた)に戒厳令が布かれた。戒厳区域は皇居周辺の臨戦地域、戒厳司令官は東京警備司令官香椎浩平中将、戒厳司令部は九段軍人会館であった。

 この日、25日の夜半から、東京は30年ぶりの大雪だったという。この事件は、その背景に、こうした衝撃的な出来事をもって、天皇の名のもとに軍が日本を統制する戦争体制を確立したいという軍部の画策があった。天皇を現人神と崇め、昭和維新を遂行するために決起した青年将校に対して、昭和天皇は激怒されたという。この時、昭和天皇が決起部隊を「反乱」と定め、断固たる厳罰をもって処置をとるという態度を示したことにより、陸軍の一部の思惑を防いだとも言えるだろう。

 しかし、その結果として、第一師団歩兵第三連隊中隊長の安藤大尉や磯部一等主計らの行動は「反乱」とされた。決起部隊の中心人物の一人である野中大尉は、上官の連隊長によって強制的に自決を強いられ、自ら命を絶った。青年将校たちは、自分たちの考えを法廷から世に伝えようとしたが、軍は完全な非公開の軍法会議でこの事件を裁き、彼らは処刑された。青年将校の思想的指導者であったとして北一輝は死刑となったが、青年将校を政治的に利用し、軍の主導を握ろうとした真崎甚三郎大将は無罪となる。そして、軍はこの事件の一切を闇に葬ったのである。

 あの出来事は、一体なんであったのだろう。
 野中や安藤や磯部の思いは何であったのだろうか。
 2.26事件とオウム真理教事件は重なるのだろうか。
 いつの世も、純粋な者は悲劇的結末になるのか。

 そんなことを思いながら、2.26事件について漠然と考えている。


February 08, 2005

『救命病棟24時』

 最近、いたるところでフジテレビの『救命病棟24時』はいいという声を聞く。そこで、先日の日曜日、そーか、そうなのか、江口洋介が演じるお医者さんというと里見先生しか知らないのであるが、そーか、進藤先生ってそんなにいいのか、よーし、じゃあ見てみようじゃないか、というわけで、近所のTSUTAYAへ行って『救命病棟24時』の第2シーズンのビデオを借りてきた。(なぜか、第1シーズンのビデオは出ていない。)

 ちなみに、もっか『救命病棟24時』の第3シーズンが放送中で、当然のことながら火曜の夜9時に家に帰っているわけはなく一度も見たことがない。松嶋菜々子の、あの状況であの化粧はいかがなものかという意見もあるようで、この第3シーズンはあまり期待はしていないのであるが、とりあえずこれからはビデオのタイマーで録画をしておこうと思う。

 というわけで、『救命病棟24時』第2シーズンである。近所のTSUTAYAでは、ビデオの第1巻が貸し出し中で、しかもなぜか第6巻が欠落していた。それ以外の第2巻から第5巻まであったので、えいやっとその全部を借りてきた。そして、日曜の夜から見始めたのであるが、全部を一度に見ると寝る時間がカンペキになくなり、こうなると昼間の仕事に差し障るので、ここはひとつ、1日1本と自分で自分に決めることにした。そして、昨日、今日とビデオの第2巻と第3巻を見たわけですね。

 で、見てみると、これはいいではないですか。進藤先生、いいではないですか。毎回、感涙ものではないですか。大体、この人、里見先生も進藤先生も同じに見えるのだが、江口洋介そのものがいいから良しと思ってしまう。命の尊厳について、まっとうなことをまっとうに言う進藤先生は、まっとうそのものなのであるが、今の世の中で、こうしてまっとうなことを、まっとうに言われてしまうとなぜか感動するのである。いかに、今の時代は、(僕も含めて)まっとうなことをまっとうにやっていないということなのであろう。『救命病棟24時』を見て思うのは、自分もしっかりと自分の仕事をしなくてはいかんなということと、結局、人は仕事を背負って生きていくんだなということで。それは、今の時代の誰もがそうなんだなということだ。

February 07, 2005

一般教書演説はComic operaである

 ブッシュが2月2日に議会で行った2期目の一般教書演説を、ネットで改めて見てみると、どうもいらついてくる。なんかこー、怒りがこみ上げてくるのである。

 "Tonight, with a healthy, growing economy, with more Americans going back to work, "なんて聴くと、こいつは何を言っているのかと思う。アメリカ経済は問題が山盛りではないか。足下はもう崩れているだろう。"Four years of debate is enough. I urge Congress to pass legislation that makes America more secure and less dependent on foreign energy."といっても、ますます外国の石油に頼るようになっているではないか。テロと戦うとか、安全のためといいながら、ビン・ラディンの居場所すらわからないのであるが、そういうことには触れないのである。中近東の民主化がなにゆえ合衆国市民の安全になるのか、そのへんの明確な説明もない。

 だいたいそもそも、なにゆえ、アメリカの若者が地球の反対側の見知らぬ国の「民主化」とやらのために死ななくてはならないのか。その理由について、具体的に述べよ、ただし、"terrorists"とか"freedom"とか"democracy"とか"security"という観念語は一言も使わずに述べよと言ったら、ブッシュはなんと答えるであろうか。"freedom"とか"security"と言えば、なんでもできると思っているのではないだろうか。これは、アメリカの建国の理念でもなんでもない、21世紀の新しいファシズムである。

 北朝鮮については"We're working closely with the governments in Asia to convince North Korea to abandon its nuclear ambitions."としか言わず(で、どうするんだ)、中国についてはなにも語らないのはなぜか。つまり、ブッシュ政権は中近東にしか関心がないのである。なぜ、中近東なのか。そこに石油があることは、もはや誰にでもわかる常識であろう。

 "One of Iraq's leading democracy and human rights advocates is Safia Taleb al-Suhail. She says of her country, 'We were occupied for 35 years by Saddam Hussein. That was the real occupation. Thank you to the American people who paid the cost, but most of all to the soldiers.' "を聞いた時、これはまるで、半世紀前の日本人のようだと思った。戦前の日本は、軍部に占領されていたという。そして、戦争中は鬼畜と呼んでいたアメリカに、日本人は終戦後「ありがとう、マッカーサー元帥」と言った。しかしながら、GHQが日本を占領していたことには変わりはなく、この時期、GHQがいかにアコギなことを影でやってきたかということは、例えば松本清張の本を読むまでもないだろう。同様に、今のイラクもまたアメリカの占領状態であり、影でアメリカ占領軍はそうとうのアコギなことをやっているであろう。もちろん、それが悪いというわけではない。戦争に負けるというのは、そうしたことなのだ。終戦後の日本人にとって、いかに進駐軍と良好な関係を保つがが最大の課題であった。戦後日本の成功者の中には、進駐軍と影で取引をしつつ商売や政治活動をしてきた者も少なくはない。そもそも、日本経済そのものが、朝鮮戦争の軍需により復興したことを考えると、いかに進駐軍と良い関係を保つことが利益につながることであったかがわかるだろう。今、イラクで起きていることはまさにそのことなのである。

 おもしろいのは、ブッシュが、私はコレコレのことをやりました、あるいは、議会と共にこれからやろうとしていますと言うと、議員たちはそのつど(そのつど、なのだ!)立ち上がって拍手をしたり、賞賛の声を上げたりするのである。こんなワシントンDCの建物の中で集まってなにを騒いでいるのか、この人たちはと思う。この一般教書演説で語られるものは、ただ単に共和党の大統領が議会で言いたいことを言っているだけとしか見えない。そして、それを民主党も含めて議会の議員も拍手したり、歓声をあげたりしているだけだ。つまり、この一般教書演説なるのものは、実際的な意味を持っていないのである。いわば大統領が議会にやってきて、「本年度はこうした方針でやろうと思っているので、よろしく」と言っているだけなのであろう。するとこれはショーなのかと思う。ショーだとしたら、すいぶんバカバカしいものだと思う。こうしたことをやっているから、ワシントンの政治っていうのは、どんどん現場から離れていくのだなと思う。

February 04, 2005

買って9日後に旧機種になった

 1月のサンフランシスコでのマックワールドでMac miniが発表された。これ、いいかも、よっしゃあ買うで、と思って、さっそく先月の22日に秋葉原に行った。店頭で実際に見てみると、思っていた以上に大きかったので、うーん、どうしようかと思った。これはシステム装置だけだから、別にディスプレイとキーボードが必要になる。キーボードは使っていないのがいくつかあるけれど、ディスプレイ装置は、その昔Power Macintosh 8500を使っていた時以来買っていない。場所を塞ぐディスクトップマシンを買わないようになって、もっぱらディスクトップでも一体型のiMacか、ノート型のiBookか、WindowsノートのThinkPadを使ってきた。だから、パソコンのディスプレイなるものは、もっか拙宅にはないのである。そりゃまあ、ここでApple Cinema Displayを買ってもいいのだけど。

 さて、どうするかと思っていたら、なんか12インチのPowerBookG4がやたら気になってきた。持ち運びができるノートパソコンを、ここずっと持ってこなかったなあと思った。以前、ThinkPadi のiSeries 1124をかなり使い込んでいたのであるが、さすがにこの機種は、今では時代遅れになってしまった。OSをMeからWindowsXPに上げたのであるが、XPがさくさく使えるかというとそうでもないので、なにかと使いづらくなってしまったのだ。それにEthernetを内蔵していなくて、LANにつなぐときはPCカードを使わなくてならないので、めんどう。ノートパソコンは、なきゃないで、なんとかなる。だから、ここ数年はパソコンを持ち歩くことはなくなってしまっていた。なんたって、重いし。メールも、ちょっとしたウェブ閲覧も携帯電話でできるし。

 ただ、である。この感覚がわからない人からすれば、アホかと思われるであろうが、ノートパソコンというのは、なんかこー、心ときめくものがある。小さなディスプレイとキーボードしかないけれど、自分の書いたものや撮ってきたものがディスクの中にあるし、ディスプレイの向こうには広大なネットの世界が広がっているのだ。個が個である、と同時に世界に向かって開いているという感覚がある。そのプラットフォームが、WindowsというおもしろくもなんともないOSよりも、MacOSである方がずっといい。そんなことを、店の中でつらつらと考えていたら、なんかムショーにPowerBookが欲しくなってきた。12インチのPowerBookが初めて世にリリースしたのは、数年前のサンフランシスコのマックワールドでだったよな。あの時は僕も行っていて、アップルのブースで触ったっけとか思い出した。このPowerBookなら、さぞかしいい文章が書けるのではないか(と、マックで書きものをしている者ならば、誰もが聴くであろうゴーストのささやき)、うん、そーだ。そーに違いない。えーい、それじゃあ買ってしまえと、12インチのPowerBookを、メモリーをMAXの1GBにして、さらにアップルケア込みで買ってしまったのだ!!いやあ、やっぱマックはいいですね。

 ところが、ところが、ところがだぁ(くどいか)、なんと1月31日にアップルは新型のPowerBook G4シリーズを出したのだ。性能もアップしたし、値段だって安くなったのだ。うおおおおっ、出すのなら、マックワールドでなんで出すと言わなかったんだあ、少し待てば新機種が買えたじゃないかあ、とアップル本社に怒りのメールを出そうかと思ったが、あまりにも大人げないのでやめるとして。うううっ、こんなことは、この業界ではよくある話ですよ。「あれは酸っぱい葡萄さ」とか思ったりして。かくて、僕のPowerBookG4は、購入して僅か9日後に旧機種になってしまったのである。まだ、カードの支払いもこれからだっていうのにぃ・・・・・・・。

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