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January 16, 2005

『生きづらい<私>たち』

 先日、香山リカの本について書いたが、その勢いに乗ってさらに読んでみた。

『生きづらい<私>たち』香山リカ著 講談社現代新書(2004)
『若者の法則』香山リカ著 岩波新書(2002)
『ネット王子とケータイ姫』香山リカ、森健著 中公新書クラレ(2004)

 僕は、香山リカより何歳か年下になるが、大ざっぱに言えば「同じ世代」に属すると思う。僕は、80年代バブル期をワカイモンの一人として過ごした。思えば、あの時代、世代比較の対象としたのは自分より上の世代の若い頃の時代であって、年代別に分けると、60年代の全共闘世代、70年代のニューミュージック世代、そして僕がいた80年代の新人類世代になる。こう考えてみると、どの世代の若者もそれなりにその時代の中で「生きづらさ」を感じていたとも言えるであろう。

 だとすると、なにもことさら2000年代の若者が特別というわけではなく、いつの時代もワカイモンはそういうもんだったのかもしれない。上記の三冊目の、ネットについての本にしても、僕がワカイモンだった頃にはメディア・リテラシー教育なんてものはなかった。もちろん、当時はネットの社会普及率はまだ低かった。さらに、僕がネットを使うようになったのは90年代になってからであり、パソコン通信の最後の時期である。その時、僕はもう大学を卒業した社会人だった。今の若者のように、もの心ついた時からネットや携帯電話があったわけではない。

 今の若者が置かれている状況を、これまでと同様のよくある若者の状況として捉えるか、それともテクノロジーの進歩によるまったく新しい状況なのだと捉えるかで見方は大きく変わってくる。しかし、それは80年代も同様であって、あの時代はパソコンやネットワークが初めて現れた時代であり、コンビニの店舗数が急速に伸び、「個」であっても全然困ることがない時代の始まりだったと思う。つまり、80年代から、いつの時代にもよくある若者の状況の中に、メディアテクノロジーや経済が介在するようになったのだと思う。単身者というものについて、今でこそ「負け犬」と呼ばれているが、80年代当時は「シングル」には肯定的な意味があったと思う。

 文芸評論家の川本三郎は1986年に雑誌にこう書いている。
"しかし、ポスト・モダンといわれる現在、日本の社会にも徐々に"個独"が認められるようになってきた。模倣から創造へと産業のスタイルを変えていかなければならなくなった社会では徐々にだが"個独"が認められてくる。みんなといっしょにでなくてもいい、ひとりだけ変わったやつがいてもいい、と時代の流れが少しずつだが変わってきている。"
"情報社会の進行とともに、"個独"でいることがラクにできるようになってきた。"
""個独"とは自閉であるという批判もあるが、自閉の状態もよく考えれば、その人の内面がひとりでいられるだけ充実しているということであり、創造者にとってはむしろ自閉は歓迎すべき状態ではないかと思う。"
"電話はある、ビデオはある、ファクシミリはある。人と人が顔をつきあわせて「有機的な」コミュニケーションをはかる度合いが薄くなってきて、"個独"な人間どうしの距離を置いた「無機的な」コミュニケーションが広がってきている。情報社会の無機的な生活環境が、"個独"な人間を作りだしている、とさえいえる。逆に言えば、従来の、カラオケ・宴会型の人間にとっては生きにくい状況が生まれつつある。"
(川本三郎著『シングル・ソサイティ』リクルート出版、1987)

 川本は、情報テクノロジーの発展によって"個独"であることが可能な世の中になり、従来の集団主義的なカラオケ・宴会型人間は「生きにくい」時代になってきたと書いている。つまり、シングルは情報社会(って今では死語だな)に適応した新しい人間の生活スタイルであると考えられていたのである。しかしながら、この時代から20年近くたった今日、携帯電話やインターネットという20年前では一般的には想像もできなかったメディアテクノロジーの進歩を経た今の時代では、「生きにくい」という意味が多少異なるとはいえ、誰もが孤独になり「生きづらい」という感覚を持つ世の中になったという。

 その一方で、それほど「生きづらい」と思って生きているわけでもない若者も数多くいるだろうと思う。実際のところ、精神科医である香山リカは、その職業上、「生きづらい」と感じている若者たちと接し、彼らを通して今の時代を考えている。それは当然のことであろう。その一方で、こうした考察には当てはまらない若者もたくさんいることは事実であって、僕が若者だった80年代も世間は僕たちのことを「新人類」や「スキゾキッズ」と呼んでいたであったが、世間がなんと呼ぼうと「自分は自分だ」と僕は思っていたし、それ以外になにができるというであろうか。むしろ、80年代以後、従来の社会通念がなくなり、学校や会社以外の場所で多様な価値観を選び取り充足することが可能になっていると思う。香山リカの本も、大学生が読むとその内容について賛否両論だという。それも当然のことだ。

 むしろ、いかにも「80年代に若者でした」という感じがしまくりの香山リカが、今の若者の心理は、従来の精神医療の範囲では理解することはできず、精神医療者は病室で患者を診察しているだけではいけないと書いていることが印象深い。

 "境界性人格障害や解離性障害は、今やただの「病気」という範疇を超え、「今を生きている」ということと深くかかわりを持った、現代人の本質的な問題だと言うこともできるかもしれません。そういう意味で精神医療は、目の前にやって来た人を「病気」かどうか判断して、「病気」と診断される人だけを治療の対象にしてきたこれまでのやり方では、十分にその機能を果たせなくなってきました。"
 "つまり、わかりやすく言えば「精神科医が病人だけを見ていればいい時代は終わった」のです。"
 "そういう意味で、精神医療者は今、病院の外の世界で新たな使命を担わされている、と言ってもよいのです。"
(香山リカ『生きづらい<私>たち』)

 この表明には、僕も大いに同意したい。おそらく、今の状況は、「希望格差社会」にせよ、「生きづらい<私>」にせよ、そうしたカテゴリーにすら当てはまらないものがあるのだろうと思う。しかしながら、我々が社会現象や心理現象を考える時、どうしても社会学なり経済学なり、あるいは心理学なり精神医学なりのフレームワークで見ざる得ない。だからこそ、そこから抜け落ちるものがあることを意識しながら、実際の社会や人々の意識について考えていくことが必要なのだと僕も思う。それが、もう若者の一人ではなくなった今の僕のスタンスなのだと思う。

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