朴念仁でなければならない
文部科学省は来年度から、基礎分野の難しい研究を分かりやすくPRする「研究PRディレクター」制度を始めるという。若者に広がる「理科離れ」を止めるのが目的であるとのことだ。
なぜ、国が子供の「理科離れ」を懸念するのか。それは、日本の科学技術が衰退しては困るというまことに現実的な損得勘定からきている。しかしながら、そうであるのならば、大学の工学部あたりの教育をもっと充実させるべきであって、小学校や中学・高校の教育にまで、国の将来の科学技術を背負って立つ人材の育成であるかのような観点をもってくるのは迷惑であろう。このへん、少子化の問題と共通している。子供は、国の将来の産業労働従事者としてあるわけではない。ところが、役人は子供を「国の将来の産業労働従事者」としてしか考えることができないようだ。
寺田寅彦は、昭和8年にとある随筆でこう書いている。
"論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密な頭脳を要する。紛糾した可能性の岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには前途を見透す内察と直観の力を持たなければならない。すなわちこの意味ではたしかに科学者は「あたま」がよくなくてはならないのである。
しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須なことである。この点で科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者であり朴念仁でなければならない。"
(寺田寅彦「科学者とあたま」『寺田寅彦随筆集 第四巻』小宮豊隆編 岩波文庫)
熊本の第五高等学校で、当時そこで教師をしていた夏目漱石の授業を受けていた寺田寅彦青年は、論理的な頭脳と直感力を持っていたと同時に「物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者であり朴念仁」であったに違いない。その後、東京帝国大学理学部物理学科に学び、やがて日本における地球物理学の先駆者になる。
文部科学省は今後、「ゆとり教育」を見直し、授業時間を増やすようにするようだ。理数系の教員は大学院修了を条件とするという改革案もある。しかしながら、そうしたことよりもなによりも「朴念仁」を許容する教育になるのだろうか。とてもそうとは思えない。そして、こうしたことを言うと、「朴念仁でいいわけないでしょう。国際的に見ても日本の子供の学力は低下しているのですよ。日本の子供はもっと勉強をして、成績を上げなくてはなりません。」という声が返ってくるような気がする。いつから、子供の教育がオリンピックになったのだろうか。
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『論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密な頭脳を要する。』
良い言葉ですね。
そんな頭脳は持っていませんが
見失わないよう努力はしたいですね。
『科学者は、普通の頭の悪い人よりも、
もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者であり朴念仁でなければならない。』
そうか、科学者になれば良かった(違う
Posted by: ルイージ | January 13, 2005 04:23 PM
ルイージさん、
僕は「ゆとり教育」というのは、従来の暗記教育は良くなくて、多様な個性や個人の創造性を伸ばそうという目的があったと思っていたんですけど、ところがどうもそういうことではなくて、実際にやってきたことというのは、大雑把に言ってしまうと、ただ単に授業時間を短くしただけだったんですね。ただ授業時間を減らしただけならば、学力が低下するのは当然なんです。
で、この当然のことに対して、「ゆとり教育」なんてもんが学力低下を招いたのである、だから「ゆとり教育」はイカン、これからはやはり管理と個人の競争を中心にした教育にしなければならないという今の風潮はものすごくラフっ言うか、荒いって言うか。
そもそも「ゆとり教育」の目的はなんであったのか、「ゆとり教育」としてなにをどう行なってきたのか、そしてなにが今日の学力低下を招いたのかということを真摯に考えようという姿勢はなくて、だた教育も自由競争でなくてはいかんとか、個人の自由だとか、教育は自己責任だとか、いい教育にカネがかかるのは当然だみたいな論調がまかり通る。でもって、みなさんもなんとなく「そうだな」みたいな感じになっている。
これらはすべて保守的な考え方なんです。しかし、本当の保守主義ならば、こんな安易な考え方はしないと思います。ようするに、プチ保守になっているんです。物事を多方面から深く考えるということをしない。なんかあったら、とにかく個人(ただし親のカネやコネは自分の力なんだとする)の自由競争と自己責任、それだけですべてがうまくいくと思っているのがプチ保守です。
Posted by: 真魚 | January 13, 2005 05:09 PM
<<いい教育にカネがかかるのは当然だみたいな論調がまかり通る。
と
<<これらはすべて保守的な考え方なんです。
???いい教育にお金がかかると言っているのはリベラルの本拠地、Teacher's Unionじゃないですか?毎年予算だけ上げて、結果は関係ないと言う環境を作ったのは??
マイク
Posted by: マイク | January 13, 2005 05:38 PM
Mike,
それは連邦政府や州政府がなにかとあるとすぐ教育費を減らすからです。
これは正確な調査比較を見たわけではないですが、実感として日本よりアメリカの公立の小学校、中学校、高校の教師の方が予算的に悪い環境に置かれているように感じます。それでも子供たちの教育のために教師という職業を選択したわけです。少ない予算でできる限りことをやっていこうとしているのがアメリカの公立学校の教師たちです。
Posted by: 真魚 | January 13, 2005 06:32 PM
真魚さん、
<<それは連邦政府や州政府がなにかとあるとすぐ教育費を減らすからです。>>
教育費を減らしたと言うのをどこに行けば見れますか?そんなの一回も私はみていませんよ。ワシントンDCではひとり頭200万円。日本のインターナショナルスクール以上のコスト。それで結果が… 減らそうとすると、アメリカで一番の票田が。
憶測とかで発言は…
マイク
Posted by: | January 13, 2005 06:40 PM