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January 20, 2005

網野さんへの追悼本

 網野善彦という歴史学者がいた。もしこの人がいなければ、今の僕たちの日本理解は恐ろしく貧困なものになっていただろう。昨年、この革命的な歴史家は亡くなられてしまった。できることなら、講演会でもいいから、実際にお目にかかってお話を聞きたい人だった。網野さん亡き今、この本を読んだ。

『僕の叔父さん 網野善彦』中沢新一著 集英社新書(2004)

 大学時代、民俗学や人類学に関心を持っていた僕は、当然のことながら網野さんの『無縁・公界・楽』は読んでいたし、中沢さんの『悪党的思考』と網野さんの『異形の王権』の両方を読んで共通する部分があることを感じていた。網野善彦は中沢新一の叔父であることを知ったのは、もっと後になって中沢さんの本で知った。学生時代の僕は、中沢新一の本を深く読んでいて、実際に高野山やネパールにまで旅をするという宗教学少年だった。

 網野さんの本を本格的に読み始めたのは、社会人になってからだと思う。そのころ僕はよく仕事の休みをとって、外国を一人旅をすることが多かった。すると、日本について多面的に考えたくなってきた。そこで、網野さんの本を、もう一度、今度は『蒙古襲来』から体系的に読んでみた。そうして読んでいくと、網野さんの本は、単なる日本史の中世の歴史書ではなく、「日本」と「日本の歴史」にそのものについての、ものの見方や考え方を教えてくれるものであることに気がつくようになったのだ。網野さんの数多くの本を読むことで、自分の中の「日本」というイメージが変わった。例えば、自由主義史観に基づくという「新しい歴史教科書」がいかに新しくないか、いかに政治的で狭いものであるかがわかるようになった。歴史学とは、そうしたものではないのだ。『無縁・公界・楽』や『異形の王権』が、網野さんのこれまでの研究成果をまとめた本であるのならば、『日本の歴史 第00巻』は今後の歴史研究での課題を提起した本であると思う。

 この本の中で中沢さんは、『無縁・公界・楽』での網野さんのアジール論を次のように論じている。人間の本質は自由な意思であり、それが人間と動物を分けている。自由であるが故に、人間は言語や法の体系を自ら構成することができる。しかしながら、そうした構造が逆に人間の自由を束縛するのだ。すると、今度は人間はさらに根源的な自由を求める欲望を持つ。つまり、自由な意思が、言語や法を作り、それらがあることによって、さらに自由を求めるのである。人の意識は、社会的な規則への志向と根源的自由への欲望の二つを同時に持つ。この根源的自由を、現実の社会で表現したものがアジールであった。具体的に言えば、中世の寺社や宗教的な山などは、その中には公権力が介入できず、租税も免除されているところもあるという場所だった。つまり、国家権力が全土を覆っていたわけではなく、所々に「無縁」「公界」「楽」などと呼ばれるアジール的空間があったのである。これらは古代にはなく、中世になって出現した空間であることは重要だ。昔の時代だからそうだったというわけではないのだ。中世という時代の現象だったのである。

 こうした、国家権力が管理する場所もあれば、根源的自由がある場所もあるという多元的な社会は風通しがいい。なぜならば、アジールがある社会は、構造的・制度的なものを志向すると同時に、根源的自由も求めるという人の意識のスタイルにぴったりと合っているからである。しかしながら、やがて近代の国家権力は、アジールの存在を認めず、すべてを同一の権力のマトリックスの場としていった。アジールは破壊され消滅し、社会は自由で活力のある多元性を失ったのである。

 中沢新一はこう書く。
"そのことを「進歩」と言うのはまったくの間違いだろう。アジールを消滅させることで、人間は自分の本質である根源的自由を抑圧してしまっているのである。根源的自由への通路を社会が失うということで、「文化」は自分の根拠を失い、自分を複製し増殖していく権力機構ばかりが発達するようになる。ひとことで言えば、世界はニヒリズムに覆われるのだ。"
 そしてこう書いている。
"今日の歴史学は、はたしてニヒリズムを克服できているだろうか。自由の空間としてのアジールは実在したのである。「無縁」「公界」「楽」という中世の言葉で表現されたものこそ、人間の本質をつくる根源的自由を、空間のなりたちや人間関係の組織法や権力の否定をとおして、現実の世界に出現させようとしたものにほかならない。そう考えることから、新しい歴史学はほんとうにはじまることができるのではないだろうか"

 中沢さんのこの解釈は、いかにもポスト構造主義的な解釈ではあるが、事実そうだろうと思う。アジールという根源的自由への欲求を否定することで始まった近代のその延長線上に、僕たちが今住んでいるこの社会がある。

 本書ではさらに、自ら密教の儀式を行った異色の天皇であった後醍醐天皇をもとにして考えていた、天皇制についての網野さんの考察についても書かれている。沖縄の宗教の研究をしていた中沢さんが、突然のようにネパールに行きチベット密教を学んだことの本当の意味を理解していたのは網野さんだった。

 中沢家は、いつも議論をしている家庭だったという。中沢家の人々は、もともと「理念」や「理想」や「観念」というものを追い求める人々だった。中沢さんから4代前の徳兵衛という人は、平素から神官のような袴を履いて神祈祷を行う人だったという。もともと、中沢家の先祖は、諏訪大社と関わっている人であったようだ。その子は、明治にキリスト教徒に改宗した人である。その息子の中沢毅一もまたキリスト教徒であり、生物学者であり、国体を生物学・生態学的観点から考えようとした人であった。祖父と父親がキリスト教徒であるためか、この毅一の息子たちは、長男を除いてみなマルクス主義者になる。この家庭では、つねに思想的な議論が活発にあって、キリスト教と皇国史観とマルクス主義がごっちゃになっているという思想のるつぼのような家庭であったという。この毅一の息子の一人が、中沢新一の父親であり、民俗学者の中沢厚である。この父の妹が網野善彦に嫁ぐ。網野さんから見れば、妻の実家に足繁く出入りすることによって、こうした中沢家の知的環境を共にすることになった。そして、ここで妻の兄の子として、後にこれもまた特殊な宗教学者になる中沢新一と出会う。中沢さんは、当時5歳だったという。

 思えば、網野善彦と中沢新一という、共に希な歴史と知の思索者が人生のある部分を共有したことは不思議なことだったと思う。中沢さんは、あとがきの中でこう書いている。

"古代人が「オルフェウスの技術」と呼んだものをとおして、人は亡くなった人々や忘れ去られようとしている歴史を、現在の時間の中に、生き生きと呼び戻そうとしてきた。墓石や祈念碑を建てても、死んでしまった人たちは戻ってこない。それではかえって死んだ人たちを遠くへ追いやってしまうだけだ。リルケの詩が歌っているように、記念の石などは建てないほうがよい。それよりも、生きている者たちが歌ったり、踊ったり、語ったり、書いたりする行為をとおして、試しに彼らをよみがえらせようと努力してみることだ。
 網野さんの歴史学が、まさにそういう行為をめざしていたのではないだろうか。"

 本書は、中沢新一が叔父網野善彦の思いをよみがえらせた本である。
 そして、僕たちにとってのそのことは、網野さんが残した壮大な課題をおのおのの立場で考えていくことだと思う。

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Comments

真魚さん、こんにちわ。

なるほど、アジールの存在は文化的に面白いですね。

>人の意識は、社会的な規則への志向と根源的自由への欲望の二つを同時に持つ。この根源的自由を、現実の社会で表現したものがアジールであった。

>アジールは破壊され消滅し、社会は自由で活力のある多元性を失ったのである

単純な感想なのですが、
「社会的な既成への志向」と「根元的自由への欲望」が一つの社会に具現化するとき、それは別々の機関として現れたということですよね。そして、近代化によって、「根元的自由への欲望」を具現化するものは、「破壊され消滅した」。

それで、真魚さんは、人の意識から「根元的自由への欲望」が消えてなくなったと思われますか?どちらでしょう。

わたしは、目に見えない存在になったと思います。目に見えないことで、意識から遠のくことはあっても、消えてしまってはいないだろうと。だから、「よみがえれせる」作業を中沢氏も試みたのだろうかと。

そして、この真魚さんの記事を読んで、現代のアジールは、ネット社会にあるような気がしました。

珍獣さん、こんばんわ。

網野先生の本はお薦めです。ぜひとも読んでみてください。

もちろん、「根元的自由への欲望」はなくなることはありません。近代の権力がいかに人の意識を管理しようとも、自由への志向は奥深いものからきていますから、かりに意識の上では忘れてしまったとしても、無意識のレベルで持っています。ただ、今の時代は、そうした「根元的自由への欲望」が文化の継承や創造へと昇華する流れが断たれてしまったために、屈折したり変容したりしたものになっていると思います。精神的病理や犯罪心理にも大きく関わっていると思います。

今の時代の意識の捉え方は、すごく狭くて小さいものだから、それをかつてのように、広くて大きな視点で人の意識を考えて、目に見えなくなってしまった「根元的自由への欲望」を、目に見えるようにする、あるいは耳で聞こえるようにする、感じることができるようにすることが文化の意味だと思うんです。

現実の世界がますます生きづらいようになってきたから、電脳空間にアジールを作ろうとしているだと思います。これが今後どうなっていくか、ですね。

真魚さま、トラバの欄を下にするレイアウトにしていまして、今まで気づきませんでした。トラバありがとうございます。

この本にも書いてありましたが『精霊の王』は、長い間の網野さんと中沢一族とのコラボレーションの集大成のような著書だったんだな、と思いました。

pataさん、コメントありがとうございます。

pataさんは、日本史そのものから網野さんのことを論じておられるようにお見受けしました。僕はどちらかというと、中沢さんの方から網野さんの世界に入っていった者です。

新しい網野さんの本を読むことができないのが寂しいです。

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