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November 2004

November 29, 2004

国立科学博物館新館へ行きました

 国立科学博物館新館が今月オープンしたというので、さっそく行ってきた。僕が初めて国立科学博物館へ行ったのは、まだ幼い頃に父親に手を引かれて訪れた記憶がある。今でも朧気ながら覚えているこの当時の館内の雰囲気は、まるで巨大な理科室であった。ひんやりとして、薄暗くて、棚の上に、瓶の中でホルマリンづけになっている標本がそのままそこに並べてあったと思う。やがて、館内は改装されてしまい、あの当時の雰囲気はなくなってしまった。

 日本は経済大国で技術立国なのだと言われているが、少なくとも博物館の設備や展示内容を見る限りでは、とてもそうとは思えない。美術や工芸品関係の博物館であっても、その内容には常に物足りなさがあるが、理学の博物館の場合はさらに内容が乏しいというか、日本の基礎科学研究の底の薄さを表しているような貧困な内容になっている。とりあえず博物館なので、展示みたいなものをやっていますみたいな程度の感じであると思わざるを得ない。ようするに、日本は博物館にカネと人をかけない。アメリカの博物館と比べると、日本の博物館はあまりにも貧弱だ。科学博物館では、特にそれが感じられるので、上野の科学博物館には、よほどの興味がある特別展示でもない限りこれまで行くことはなかった。

 その科学博物館に、新館ができたという。上野駅から、紅葉まっさかりの上野公園の国立西洋美術館の前を通って科学博物館へと向かう。日曜なので家族の来館者が多い。もっか科学博物館では特別展として「翡翠展」が開催されている。とりあえず、今日のところは翡翠には関心はないので、常設展の方だけを見ることにする。しかしながら、入り口の前で気になったのは、本館と新館の入場は別なのだろうかということだ。そこで、入り口で列の流れを指示している、いかにも「私はバイトです」という感じのにーさんに、「新館を見るのもこっちですか」と尋ねると、にーさん曰く「特別展はこちら、常設展のみはこちらです」という。いや、その常設展の中の新館の部分を見たいのだけど、と思い、再度「新館だけもこっちですか」と聞くと、またもや「特別展はこちら、常設展のみはこちらです」と言う。よくわからんが、コミニュケーションが成立していないことはよくわかったので、とりあえずにーさんの言う「常設展のみ」の列に並んで入場券を買った。入場料金は大人420円という感動的安さ。国の施設なので、この料金なのであろう。入り口に入ってみると、本館は現在改装中で当分閉鎖しますという表示があった。なんだ、あのにーさんはだから常設展イコール新館であるという思考をしていたのかと思う。それならそうと、「本館は今改装中で、常設展示は新館のみです」と言えばいいのにと思ったが、そうした対応はバイトにーさんの職務を越えることだったのであろう。

 新館の展示内容の全体的な印象は、おしゃれな展示方法で、この狭い敷地面積(それでも日本で最大規模の展示面積だという)によくもまあこれだけたくさんの展示品を置いたものだと思った。アメリカの博物館の展示手法を取り入れていて、体験コーナーのところなど、サンノゼにあったインテルのテック・ミュージアムを思い出した。

 地下1階と地下2階の恐竜やほ乳類の骨格展示はなんかすごかった。ようするに、あれらはみんな死骸なのである。死骸の骨格が室内インテリアみたいに並べてあって(科学博物館新館のプレスリリース向けのディスクトップ画像です)、見るこちら側も累々たる死骸の山を見ているのだ。ある意味で、これはシュールだ。

 ただし、じっくりと展示物について考えることができる場所かというとそうでもないと思った。当然のことながら人が多いというのがあるが、これは平日に来ればいい。気になったのは、説明文があまりにも凡庸というか、なにを説明しているのかよくわからないものが多かった。英語の説明文も、あまりにも簡略すぎる。これでは、外国人はわからないであろう。展示物の隣に説明のディスプレイがあって、エラーメッセージでひとめでWindowsを使っているのがわかるが、エラーメッセージが出ていてはイカンではないか。それに、あのディスプレイでの説明を真面目に聞いて、ああそうか、そうなのかと理解している子供を見たことは一度もなかったのだが。なにゆえ、わざわざディスプレイを使ってCGやアニメーションで説明しようとするのだろうか。ようするに、この説明ディスプレイは邪魔だ。きちんとした説明文で説明しようとなぜ思わないのだろうか。来館者は説明文なんか読まないから、そうした部分にはカネをかけないというのならば、ここは国立の教育機関なのではないのかと言いたい。つまり、展示品の視覚的効果だけに重きが置かれていて、博物館のもうひとつの目的である教育の部分が弱い。博物館とは、展示品をただ「見る」だけではなく、それらを前にして「考える」場所でもあるはずだ。

 おもしろかったのは、地下3階の宇宙のコーナーにあった銀河系のナビゲーション・パネル。これは実際に自分でコントロールバーを使って、銀河系の中で自分の望む方法へ画面を進ませることができる。このシステムには、現代の天文学の最新のデーターによる恒星の名前と位置が入っていて、画面には実際のその星の名前と相対位置が表示されるのである。あたかも、銀河の中を進む宇宙船という感じで、「スタートレック」のUSSエンタープライズの天体測定ラボにも、これの大型のものが(しかも、あっちはコンピューターは音声入力インターフェース)あった。こうしたことが本当に可能な時代になったんだなと感動。

 それと、熱帯雨林のある一定の面積内で、どれだけの昆虫種がいるのかという展示で、それこそたたみ2畳ぐらいの大きなパネルに、厖大な数の小さな昆虫がびっしりと標本ピンで並べられて、これほど多様な生き物がほんの小さな面積の場所にいるのかと思った。たった1本の樹を切るだけでも、ものすごい数の生物種の生活圏を破壊することになるのだ。

 というわけで、上野のデートスポットというほどもでもないが、そこそこ楽しめる場所なのではないだろうか。次回は、もっと人がいなそうな時期に来て、ほ乳類のあの骨格死骸インテリアを前にして、卒塔婆小町なんぞをぼんやりと考えてみるのも悪くないなと思う。

IMG_OSHI.jpg
天気が良かったので、新館の屋上へ上り、おしるこを飲みました。うーむ、じじむさい。

November 15, 2004

「迷惑なアメリカ」がまだ続く その2

"In my view, being a liberal is something to be proud."
(リベラルであることは誇るべきことである。)
-Robert B. Reich "REASON -Why Liberals will win the Battle for America"

 今だにどう考えても、なぜブッシュが再選したのかわからない。なんども繰り返すが「どう考えても」だ。外交的には、アメリカ単独主義で軍事優先主義で先制攻撃主義であり、経済的には軍産複合体主導型経済、富裕層優先主義、福祉切り捨て、社会的には中絶反対、同性愛反対、キリスト教原理主義重視、等々のどこがいいのか、私にはまったく理解できない。しかし、現実はジョージ・W・ブッシュが再選したわけであるので、さすがに現実が間違っているとは言えない。つまり、アメリカというものに対して、私の知らない「考え」が世の中にはあるということである。当然のことではあるが。

 実際のところ、Greg Palastが書いているように、今回の選挙は実はケリーの勝利であり、共和党はまたもや汚い手を使って選挙を勝利に導いたという主張もある。また、田中宇氏の「ブッシュ再選の意味」は必読であろう。

 しかし、ここでは、時事的な論評よりも、もっと広く包括的にアメリカの政治を考えてみたい。この「「迷惑なアメリカ」がまだ続く」は、とりあえず来年の1月までシリーズ化し、冒頭で引用したネオリベラルの代表的論者Robert B. Reichの理論を元に、保守主義の欠点を論じ、折に触れて「なぜブッシュが再選したのか」ということを考えることにする。

November 04, 2004

「迷惑なアメリカ」がまだ続く

 現時点ではまだ決定していないが、ブッシュ再選と見てまず間違いないだろう。興味深いのは、東部と、ワシントン州、オレゴン州、そしてカリフォルニア州以外は、中西部も南部も全部共和党支持であるということだ。まあ、予測されていたことであるが。アメリカは急速に保守化し、右翼化している。以前にここでも書いたように、なにゆえ共和党・保守主義がこれほど支持されるのか。これからの僕のテーマのひとつは、これとする。僕は、中西部や南部を訪れたことがない。実際に行ってみて、考えてみたい。

November 01, 2004

天からふる音

 高校の時、友人たちと、どこかの山に行ったことがある。どこの山だったのか覚えていない。夜の記憶があるので、山の中で宿泊したのだろうけど、どこに泊まったのか、これも覚えていない。でも、その時見た夜空の光景は、今でも覚えている。天には、これほど数多くの星があるのかと思った。数多くの星の光が天球を覆っていた。天の川は、ものすごく広大な星々の帯だった。その星の帯が、天球の端から端までを大きく横切っているのだ。その天頂に、巨大な白鳥が羽根を大きく広げていた。1等星デネブと二重星アルビレオを結ぶ線と、その線に直角に交わる線をひくことによって壮大な十字線ができる。その十時線の姿は、本当に天の河に飛ぶ巨大な白鳥に見えた。

 沖縄の音楽ユニットTINGARAの音楽を初めて聴いた時、高校の時に見た、あの天空の星空を飛ぶ壮大な白鳥の姿を思い出した。

 週末の30日の土曜日の夜、僕は有楽町の東京国際フォーラムで催されたTINGARAのコンサートへ行った。この日は朝からの仕事をすばやく片付け、雨の中を有楽町へと向かった。開場は18時で、1時間半前には有楽町についてしまった。そこで、駅前の三省堂書店に入る。コミックスの棚で、「アフタヌーン」で連載中の漆原友紀の『蟲師』の最新巻を発見した。雑誌では読んでいないので、新しいコミックスが早くでないかと思っていたのだ。同じく、「ネムキ」に連載の今市子の『百鬼夜行抄』の最新巻も発見。こうやって、何気なく入った本屋さんで待っていた本と出会うと楽しい。ついでに、星野之宣の『神南火』と岩明均の『ヒストリエ』を買う。こんなに買ってしまって、カバンが膨れてじゃまにならないだろうか。これからコンサートへ行くのに。しかしまあ、本は買いたい時が買う時と思っているので、ええい、ままよとレジへ向かう。カバンをぷっくらとさせて、会場へと向かう。

 東京国際フォーラムのC会場の入り口へ行ってみると、まだ開いてなさそうだったので、入り口前のカフェでコーヒーを飲みながら、さっき買った『蟲師』を読む。この作品の世界観が好きだ。読んで余韻が残る名作。しかし、いつまでも余韻にひたっているわけにもいかない。18時になったので、会場の方へ移動する。結構、それなりにもう人が集まっていた。会場の入場準備がまだということで、ロビーで待つ。こうしたコンサートとか映画館とかでは、僕は、ついつい観客はどのような人たちなのであろうかということが気になってしまう。さて、とばかりに見渡してみると年齢層は高いですね。昔、渋谷のON AIRでのりんけんバンドのコンサートに行ったことがあるけど、あの観客は場所がらか若者が多かったと思う。

 コンサートは、最初は舞台の照明演出がちょっときついかなと思った。ただでさえ、コンサート会場での演奏は音響効果が強くなるのだから、むしろもっとシンプルな演出でもいいんじゃないないかと思ったけれど、曲が進むにつれて、そういうことはどうでもよくなってTINGARAの音楽スペースに包まれていった。

 TINGARA(ティンガーラ)とは、沖縄の言葉で「天河原」つまり「天の川」を意味する。沖縄の伝統音楽をベースに、スローテンポで、南島の満天の星空から音が聴こえてくるような音楽を創っている。三線(三味線のような沖縄の楽器)とシンセサイザーと女性ボーカルが見事に調和した独自の音楽空間を編み出している。その透明な音楽は、例えばエンヤよりも、もっと奥行きがあって、そして美しく輝く豊饒な南の海のイメージを思わせる。これまでCDアルバムを5枚出していて、テレビのCMや、龍村仁監督のドキュメンタリー映画『地球交響曲 ガイアシンフォニー』で使われている。これほどのいい音楽が、なぜメジャーにならないのか不思議だ。僕の席は一階だったけれど、フロアで空いている席が結構いくつか見えた。武道館を埋めるようなコンサートはTINGARAには似合わないかもしれないので、これぐらいがいいのかもしれないけれど。

 コンサートの途中で、沖縄の版画家である名嘉睦稔(なか・ぼくねん)さんがゲスト出演する。もともと、TINGARAの3人は、ボクネンさんの展覧会で出会ったことがきっかけだったという。ボクネンさんのギャラリーで流す音楽を選んでいたが、探しても見つからないので自分たちで音楽を作曲したのがTINGARAの始まりだった。ボクネンさんは、いわばTINGARAの生まれた場所のようなもので、ボクネンさんの版画はTINGARAのCDのアルバム・デザインに使われている。この人は、版画家なのであるが、三線を持って登場。自ら、TINGARAに作詞作曲した曲を唄う。

 おもしろかったのは、その後のトークで、ボクネンさん、リハーサルの時とクールの回数が違うということで、ボクネンさんはその場で歌を唄っているということだ。即興なのである。このボクネンさんが、懐の深い、おおらかで人間味のあるいいキャラクターなのだ。ボクネンさんは日常の暮らしの中でも、口から唄が出てくるという。三線を持って歩けば、それだけもうカタカタと曲を作りながら歩くという。つまり、ボクネンさんにとって音楽とは、「音楽」というモノがそこにあるのではなく、自分の中から自然に生まれてくるものなのだ。三線一丁で、即興で唄を歌う。本来、音楽はあるシチュエーションの場で生まれ、そしてその場で消えていくものだとボクネンさんは言う。自然の風や波と同じだ。僕たちは、それをCDとかMDとかMP3とかいった永続的なパッケージの中に入れて聴いているだけなのだ。

 ボーカルのつぐみさんが「TINGARAは、ボクネンさんのような音楽をやりたい」と言っていた。会場での、TINGARAの3人の「ボクネンさん大好き」という感覚が見ていてまたいいのだ。TINGARAの音楽は、ある意味において沖縄のトラデッショナルな音楽とは離れている。バリのガムランなど、他の伝統音楽の楽器を積極的に取り入れている。シンセサイザーやドラムやパーカッションやベースなどを使って、かなり都会的に洗練した音楽創りをしている。むしろ、沖縄の伝統音楽のスタイルを保ちながら、その一方で極めて都会的な感覚があって、そのバランスがとれていることがTINGARAの音楽なのだと思う。しかし、沖縄の明るい空の下で、大地に立つ大きな樹のようなボクネンさんの音楽を理想とするTINGARAの3人は、自分たちの音楽がどこから来ているのかを明確につかんでいるのだと思う。

 TINGARAの音楽に、なぜこれほど懐かしい感覚を受けるのだろう。TINGARAの音楽には、ヒーリングというよりも、もっと活動的な力強さを感じる。単なる、心地よくなる癒しではない。コンサートで、巫女のように唄い、舞う、つぐみさんを見ていると、TINGARAは3人で音楽を創っているのではなく、ボクネンさんや沖縄の空や海や風や花や、家族や人々や、食べ物や飲み物や、神話や伝承、南洋の島々の過去と未来などといった無数のものとのつながりの中で音楽を創っていることを強く感じる。そして、彼らの音楽を聴いている時、音楽を通して自分もまたそのつながりの中に入っていく。その幸福のひとときを、TINGARAの音楽は与えてくれる。

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