美は乱調にあり
アメリカといっても、僕が知っているのはサンフランシスコぐらいなのであるが、お店でものを買うときがちょっと楽しい。お店といっても、macy'sとかSAKSとかNORDSTROMとかでカードで買うような買い物ではなく、そのへんの小さな雑貨屋とか食料品屋とか本屋さんとかのことだ。
なにが楽しいのかというと、レジでお金を払うときだ。ちなみに、僕はいまだにコインの種類の判別が瞬時にできない。例えば、1ドル75セントと言われた時、えーと、1ドル紙幣と、75セントだから、このquarterが2つで、えーと、50セントだから、えーと、あと25セントって、10セントが2つと、えーと、という感じで、英語というより算数の能力がないとしか言いようがない。だから、こういうときは、さっと1ドル紙幣2枚を出しておつりをもらうことにしている。従って、いつも財布にはコインが大量に貯まるのだ。このコインというのは、例えば日本に持って帰ってきて、CITIBANKにもっててもドル預金口座に入れてくれないし(円をドルに変換しなくてはドル預金ができないのだ。それに、日本のCITIBANKは手数料が高いのはムカつく)、紙幣にも交換してくれないのでひたすら貯まる。なんとかしなくては。
で、アメリカでレジでお金を払う時、何が楽しいのかというと、たいていレジの人と二言三言会話をする。買う物をお店の人のところへ持って行くと、店の人が"Hi,How Are You"とか言ってくる。こっちも、"Fine."とか言って、さらに「雨がふりそうですね」とか「このリンゴおいしそう」とか言うわけであるが、まあ、これはお決まりの会話みたいなもので、必ずしも心がこもっている会話というわけではないけど。
僕が好きなのは、週末の買い物だ。お金を払って、買い物袋をもってお店から去る時、店の人が"Have a nice weekend."と言うことが多い。こうした時、"You too."とか返事をして店を出る。時には、こっちからそう言うこともある。年末のクリスマス間近の週末だったら、"Have a nice weekend and Merry Christmas to you."と向こうが言ったり、こっちから言ったりする。たわいもない会話なのかもしれないが、こうした会話ってあると楽しい。
日本では、こうした会話はない。いや、できなくはないのであろうけど、近所の生協での買い物も、コンビニでの買い物も、黙ってレジでお金を払い、黙って店を出る。例えば「良い週末を」とか言うようなものならば気障っぽいと思われるだろう。見知らぬ人間どおしでも、"Hi,How Are You"で会話ができるアメリカと、見知らぬ人間はあくまでも見知らぬ人間であってそれ以外の何者でもない、コミュニケーションを始めるためには、まず「すみません」と言わなくてはならないという、まことに重ったるい決まり事がある日本の文化との違いは大きい。
いつも直球「ど真ん中」の思考を表明するkakuさんの「少子時代の“健全”であることの難しさ」を読んだ時、アメリカでのような見知らぬ人とのちょっとした会話の楽しさって日本はないなと思った。kakuさんは、人間の喜怒哀楽を「他人に危害を加えない範囲内で表現すること、これまた人間としてごくごく“健全”な行動であると私は思う。」と書いている。この「表現」というのは、言葉であり、あるいは身振りではないのだろうか。それらがあまりも貧困なのだと思う。そして、kakuさんはこう書く。「そして、その「表現」行動に対して他人から反応が起こってくる…これまたごくごく“健全な”人間関係の姿ではないか。」まことに、その通りだと思う。
ここで、kakuさんの意見を僕なりに考えてみたい。kakuさんが言われる喜怒哀楽を「他人に危害を加えない範囲内で表現すること」は、確かに「健全」な行動であると僕も思う。しかし、そのためにはそれを可能とする「場」と「関係」が必要なんだと思う。そして、現代の僕たちの不幸は、そうした「場」と「関係」が喪失してしまったということではないだろうか。
具体的に考えてみよう。人が喜怒哀楽を自由に表現するには、「自由に表現してもいい」という「場」が必要であり、自分の感情をさらけ出しても安全な信頼できる他者との「関係」を必要とすると思う。例えば、満員電車の中で自分個人の喜怒哀楽を出されては迷惑だろう。もちろん、kakuさんは「他人に危害を加えない範囲内で表現する」と書いている。しかしながら、ではその「他人に危害を加えない範囲内で」(これを「他人に迷惑をかけない範囲内で」と言い換える)表現できる「場」とは、今の世の中でどこにあるのだろうか。どこもかしこも、たくさんの人がいて、抑圧的に管理されている「場」になっているではないか。
さらに、最近では成果主義が主流になりつつある。物事を「勝ち組」と「負け組」で二分割する人々が増えてきたという。誰もが、自分は「負け組」ではないのだと思い込もうとしているという。他者に対して、完全に無視をするか、あるいは恐怖と競争意識の対象としてしか見ることができない世の中になってきたようだ。ようするに、他者を信頼できない。信頼できる他者がいない。こうした状況で、自分の感情をストレートに出すことは、相手からどんな反応が返ってくるかわかったものではない。むしろ感情の発露を押さえようとするのが「正常」な自己防衛本能だろう。
つまり、今の僕たちは、好きで人間関係を希薄にしているのではなく、むしろそれ以外の選択がなかったからそうしているのだ。病的な世の中で、自分だけは「正常」でありたいと願った結果が、「ディス・コミニュケーション」であり、あるいは「コミニュケーション不全」という病理だったというわけだ。人間関係を希薄にしなくては、逆にこちら側の心が崩壊していたかもしれない。
しかし、「正常」な自己防衛機能であったとしても、「不適応」であることにかわりはない。かくて病的な社会への極小的な適応をする病める「少年」や「少女」たちは、やがてウォークマンで耳を塞ぎ、アニメやマンガやパソコンやゲームやリストカットや拒食症や過食症や宗教信仰や少年愛などに、自分の興味の対象を限定して生きていく方法を見出していった。その閉塞的な場を自己の感情の表現の「場」とし、その中で自分の喜怒哀楽を表出してきた。一歩バランスを崩せば、犯罪者か精神異常者になるかもしれないというきわどい線上を常に歩きながら。実際に、その線上の向こうへ行ってしまった者たちも数多くいた。
そのどこが悪いのか。そうであっては、なぜいけないのか。実は、僕はこれまでそう思っていた。しかしながら、いつのまにか、それではいけないと思うようになってきた。
なぜいけないのか。それは、自閉的な場の中でどんなに美しく自己完結をしていようとも、それはなんの成長も変化もないということに気がついたのだ。自分と自分の興味の対象以外のものの存在を知覚しないという精神構造を持っているということは、生活をしていく上で、いやでも遭遇せざる得ない「自分と自分の興味の対象以外のもの」を前にした時、それを不用なデータを削除するかのように淡々と排除するであろう。
人は生きていくために、自分の美意識を持つことは必要だと思う。しかし、自分にとって異質なものを排除していくことによって作られた秩序は、とてもピュアであり美しくはあるが、もろくて弱い。やがて緩慢な死を迎えるだけだ。つまり、自分の価値や美意識は持ち続けるべきであるが、それは固定した自閉構造なのではなく、「自分と自分の興味の対象以外のもの」との関係を自発的に形成し、自分で自分を自己組織化していく価値や美意識でなくてはならないということだ。それは時としてピュアな美しさではないかもしれない。しかし、美とはピュアなものの中にのみ存在するわけでなく、むしろ、混沌やランダムネスとの関わり合いの中にもあるかもしれない。あるいは、「美は乱調にあり」とも言う。
そうしたことができる「場」や「関係」がないのは事実であろう。しかし、ないのならば自分自身で作っていくしかない。あいも変わらないこの国の固定的な人間関係の中で、自分で細々と関係を変える関係のようなもの作っていくしかない。荒れた大地に、種を蒔くように。
kakuさんはこう書いている。「目先の何かに熱中することで空虚感を無かったことにしようとするのではなく、とことん自分の醜悪さや自分のダメダメさと向き合おうじゃないか、と。」これを僕の言葉で言えば、自閉的な場所で「自分と自分の興味の対象」だけに関わることはもうやめようということだ。
さらに、kakuさんはこう書く。「そうしたらきっと自らその為の行動を起こそうとするはずである、と。行動を起こし時に訳も分からずもがいている内に、きっと、「空虚感」なんてなくなるはず。その時こそ、自分の事を自ら「負け犬」と皮肉っても壊れない自己を確立できる様に、なる。」これを僕の言葉でひとことで言えば、「美は乱調にあり」ということだ。(と、いっても僕のイメージでは、瀬戸内さんのあの小説ではなく、上々颱風というバンドがありまして、こういうタイトルの歌があります。こっちの方が好き。)
乱調の中にある美を発見すること、感じること。そうした美意識を持つこと。それが「健全」であるのかどうかはわからないけれど、これからの自分はそれが必要なんだと思う。
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いつも直球ど真ん中、kakuです。早速TB頂いて嬉しいです、光栄です。
“美は乱調にあり”…うーむ、真魚さんこそ、ストライク!なんてふざけている訳では無いのですが。でも、流石です。私の「美」に対する根底には、健全であるとは不健全を内包している、と言う様な両眼視的な思想が流れています。
実は私、「健全」と言う言葉を使うのをとても躊躇したんです。なんだか「健康でなければならない」と説くヒトラー・ユーゲントを想起させるのがちと怖くて。その辺りを確り押さえて下さった真魚さんの読解力に、感謝感謝、デス。
Posted by: kaku | October 28, 2004 07:19 PM