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October 12, 2004

佐藤卓己著『言論統制』を読みました

 佐藤卓己著『言論統制-情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』中公新書(2004)を読んだ。僕が今まで読んできた中公新書の中で歴史書のベストは、山内昌之著『ラディカルヒストリー』中公新書(1991)であるが、それに並ぶ良い歴史書であった。

 鈴木庫三は、陸軍少佐であり内閣情報局情報官として、戦前の出版・思想界の言論統制の任にあたった人である。外交評論家の清沢洌が「日本思想界の独裁者」と呼び、数多くの出版人が言論弾圧の「元凶」と指さした人である。中央公論社の嶋中雄作社長に「(お前のような自由主義の出版社は)叩きつぶす」とどなりつけ、戦後、石川達三の小説『風にそよぐ葦(あし)』の中でも「佐々木少佐」として登場し、紙の配給権を盾に出版社に脅しをかける言論の独裁者であった。

 僕たちは、戦前の日本のことを考える時、必ず思うことは、軍部の剣の前に知性のペンは沈黙したということだ。ようするに、軍部が自由な言論を無理矢理に押さえつけた。その軍部の軍人として最も悪名高いのが、この鈴木少佐であった。鈴木少佐に脅されたという出版社は、中央公論社だけではなく、岩波書店、講談社、実業之日本社などもまたそうであり、それらの出版社の社史には、鈴木少佐は言論弾圧の代名詞のように出てくるという。言論はあくまでも軍部(鈴木少佐)と戦おうとしたが、やむなく従わざるを得なかったというわけである。

 ところが、これらのことは戦後、出版社や言論人たちが作ったデタラメであった。

 これは、最近、鈴木庫三の自宅から発見された日記を調査することによって初めて明らかになった。鈴木少佐とは、決してそのような人ではなかったのだ。それを、佐藤氏は本書で論理的に実証的していく。鈴木少佐は、そうした独裁の人ではなかった。彼は、軍人でありながら、日大や東京帝大に学び、倫理学の助手として大学の教壇にも立ったことがある異色の軍人であった。本書で明らかになった鈴木少佐の生涯と思想、戦前と戦後の言論界の姿は極めて興味深いものであった。

 鈴木庫三は、1894年(明治27年)に茨城の農家に生まれた。生家は豪農であったが、6男4女の第7子であったためか、生後まもなく、里子に出されている。養家の経済状態は、庫三が小学校に通うあたりから悪化していったが、養父母は愛情を持って養育してくれた。成績はクラスで一番、級長であった。しかし、貧乏のため遠足に行く着物や小遣いがなく参加できなかったという。

 この少年が、初めて出会った世紀の大事件は日露戦争であった。庫三は、小学校を卒業の後は、陸軍幼年学校へ進学することを望んだ。しかし、一家の農作業を支えていたこの少年がいなくなれば、最低限の生活すらできなくなることを危惧した養父はこれを認めなかった。幼年学校は、戦死者遺児の官費生や半額免除の陸海軍の将官の子弟以外は、事前に3年間の学費納金が必要であり、この金額は一般中学校よりも高額であったようだ。このことは、僕は知らなかった。軍の学校なら一般の公立中学より安く、だから、学力はあるが貧乏で中学へ進学できない子供が軍の学校へ行くのだと思っていた。明治の初期の頃はそうだったと思う。しかし、明治の末あたりでは、そうではなくなったようだ。むしろ、中学進学よりもカネが必要なのであった。

 進学を断念した少年は、この頃設立された帝国模範中学会の通信会員となり、農作業の合間に講義録をひもとく。少年は、地主と交渉して小作地を増やし、杉山を開墾し、その作業の合間に、日雇いで土木作業でも運搬でも何でもやり家計に入れたという。ようやく家の借金にもめどがついた1913年、庫三は陸軍砲兵工科学校を受験し、合格する。この少年は、砲兵に関心があったからここに入学したのではなく、下士官が士官学校を受験するには数学や物理、化学を学んだ砲兵工長に限られていたからである。もちろん、幼年学校へ進学していれば、そのまま士官学校受験ができたわけであるが、幼年学校コースではない庫三にとって、陸軍士官になるにはこの道しかなかった。

 砲兵工科学校に入学した庫三は、次の目標である陸軍士官学校の受験に邁進する。受験勉強につぐ受験勉強の日々である。勉強をしていない日はなかったという。1915年、砲兵工科学校の卒業成績は10番で、三等銃工長として卒業する。ここに職業軍人としての鈴木庫三の生涯が始まる。二回の士官学校受験に失敗し、三度目の1918年、合格する。翌年から、市ヶ谷台の陸軍士官学校の生徒となる(陸軍士官学校は市ヶ谷にあった。このナニナニ台というのは、軍隊で学校がある場所のことを意味する。ちなみに、この用語は今の自衛隊でも使用している。防衛大学は小原台である。)

 士官学校の入学の前に、配属兵科が決定される。輜重兵科であった。輜重とは、兵站、つまり戦場へ武器弾薬・食料等を補給する部隊である。この兵科の決定は、鈴木士官候補生のその後の軍隊でのキャリアを決定したといってもいい。軍隊でのエリートコースは、歩兵科である。歩兵科の士官として陸士陸大を卒業し参謀将校になれば、それだけでもうエリート軍人としての生涯が決定する。さらに陸大での卒業順位が上位クラスであれば、将来は将官になれることは決定であろう。軍隊というのはそういうところであり、基本的にこれは今の自衛隊も変わっていない。今日でも、自衛隊では防大や幹部学校の卒業年度と順位が人事を決定する。しかし、輜重兵科ではまず出世はできなかった。(ちなみに、今日の陸自では、補給部隊の士官がそうであるかどうかは知らない。)

 戦国時代の武将は、兵站の重要さをよく知っていた。日露戦争でも、物資の補給は重要視されていた。ところがなぜか、日露戦争後の日本陸軍は、その滅亡に至るまで、logistics(兵站)というものを徹底的に軽視していた。大量の物資を瞬時に消耗する近代戦では、兵站は作戦行動の要中の要であるが、日本軍はこの重要性を理解しなかった。歩兵の攻撃精神だけで戦争は勝つという思考は、まるでヤクザのケンカのレベルであり、軍人という軍事の専門家が考えることではなかった。なぜこの程度の認識しか昭和の日本軍にはなかったのか、昭和史の謎である。

 輜重兵科であるということは、陸軍大学受験合格はかなりむずかしいということになる。輜重兵科で、陸大に受かる数は少なかった。さらに、鈴木少尉の場合、1923年に24歳で士官になったということは、「任官2年以上、30歳以下」という陸大受験資格にひっかかることであった。鈴木少尉に、陸大受験の道は閉ざされていた。そこで、彼は陸大卒組に強烈な対抗意識を持ち、新たなる目標として軍隊教育学の専門家となる道を選ぶ。

 この時、連隊勤務の中で、鈴木士官候補生は、1年志願兵を「文弱」と見なし、懐疑的な視点で見ている。1年志願兵は、入隊中の食費、衣服、装具、弾薬代、兵器修繕費の一切を自費でまかっていた。つまり、そうした裕福な階級の子弟たち向けの制度であった。一般兵とは異なり、除隊時には予備役伍長になる1年志願兵は、階級差別待遇の制度であったという。これに対して、鈴木少尉は一般の初年兵を暖かいまなざしで見ている。彼は、家が貧しいがために幼年学校に行けなかった。そのために、回り道をしてようやく陸軍士官になった。しかし、その回り道のおかげで陸大には行けなかった。司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、明治の初期の若者であった秋山兄弟は家が貧しいから軍の学校へ行った。それができた時代だった。明治末には、日本は露骨な階級社会になっていたのである。

 鈴木士官候補生の士官学校時代は、大正デモクラシーの時代であった。アメリカのウッドロー・ウイルソン大統領が、「人類最後の戦争」と呼んだ第一次世界大戦が終わった頃である。軍縮が叫ばれ、国際的な反戦ムード、平和主義の時代であった。その中で、イギリスのロイド・ジョージが提唱した徴兵撤廃論は、日本国内でも話題になっていた。『中央公論』では、東京帝大法学部教授の吉野作造が、各国が徴兵撤廃を行うのならば日本も徴兵制撤廃を行うのは妥当だと書いていたという。戦争がないのだから、軍隊など不必要だという意識が広まった時代であった。こうした時代を、鈴木士官候補生はどう見ていたであろうか。彼の当時の日記には、「帝国軍人有志」による檄文が貼り付けられていたという。士官学校の正門前でも配っていたものを、彼もまた手にとって読んでみたのだろうか。その檄文には、軽佻浮薄な平和軍縮ムードを批判し、白人覇権の国際的現実の前に、帝国軍人が果たすべき使命が書かれていたという。

 士官学校の生徒は、その多くは農村出身者であった。この時代の日本の都会と農村のライフスタイルの違いは、平成の今からでは想像もつかないほど大きかった。当時の日本全部がほとんど農村的であり、都会は一部の裕福な階級の贅沢文化と見られていた。都市文化と農村文化の対立は、この時代の日本を理解するキーである。地方の中学卒業者の多くは、士官学校への進学を望んだ。これに対して、都会の裕福な階級の息子は、中学卒業後は高校へと進学する。ようするに、士官学校から見れば、都会の金持ち階級は、中学から高校そして大学へと進学する贅沢なブルジョアであり、批判すべきものであった。佐藤氏は本書の中で、フランスの社会学者ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」という用語でこれを表現している。「ハビトゥス」とは、「社会的に形成された習慣」であり、「出自や教育に規定された実践的感覚であり、行為や言説を構造化する心的システムである。」そして、佐藤氏は「この意味で士官学校は、農村的ハビトゥスを再生産する文化装置であった。」と書いている。

 僕が、この本を非常におもしろいと思ったのは、冒頭に挙げたような陸軍少佐鈴木庫三のイメージが、戦後の出版界で言われていたものとまったく違っていたという事実が判明したということではなく(そもそも、鈴木少佐のことを僕はまったく知らなかった)、むしろこのハビトゥスの違いによる対立である。後年、鈴木情報官は自由主義知識人(つまり、リベラルな人々)と真っ向から対立するが、それはこの農村の文化を背後に持つ帝国陸軍鈴木少佐と、都会の文化で育ち、「趣味の戦争」をやっている自由主義知識人のハビトゥスの対立であったのだ。さらに、海軍は出身者が都会の中産階級が多く、ここでもまた陸軍と海軍の対立は、農村と都市のハビトゥスの対立であった。

 つまり、陸軍から見れば、都会出身で、都会の高校から大学へ進学した自由主義知識人は、反国家的で低俗で堕落したブルジョア連中であり、「膚が合わない」んだったのだと思う。同様に、海軍もまたブルジョアぽくって「膚が合わな」かったのだ。金持ち階級や高学歴エリートの自由主義者は勝手なことを言い、その一方でソビエトの援助を受けている社会主義者は国内でテロを起こしている。労使対立は激化し、世界恐慌以来、景気はよくならない。このような国家の危機を救うのは帝国陸軍だけだと考えてもおかしくない。このことを逆から言えば、自由主義知識人が、どれだけ軍部の単純な考え方を批判しても、軍部はそれを受け容れることはしなかったということだ。軍部と知識人の間にある、暗黙の「不平等」のようなものがある限り、軍部は知識人を受いれることができなかったのだということである。ちなみに、都市文化の最大のシンボルはアメリカであった。

 陸大進学を断念した鈴木少尉は、士官学校後、まず陸軍砲工学校を受験し、これに合格する。なぜ、砲工学校なのか。それは砲工学校は、帝国大学への派遣制度があったからである。陸大に行けないのならば、帝大を目指そうとしていた。鈴木少尉は、自らを「プロレタリア少尉」と呼び、部下の面倒を良くみたという。この頃に家庭を持ち、勉強机を「奮発シテ購入」したという。華美虚飾の生活よりも、シンプルライフを好み、成金趣味を嫌った。文学や芸術は堕落していると思っているが、だからといって、文学や芸術を理解していないわけではなかった。日大の予科の夜学に通い、文学や芸術の講義もとっていたという。美術館や劇場にも足を向けていた。

 中尉となり、昼間は軍務に追われ、夜間は日大の倫理学助手として教壇に立つ鈴木は、ついに帝国大学に派遣されることになる。鈴木中尉が、東京帝国大学の学生として見た1920年代の東大のキャンパスは、マルクス主義思想ブームとジャズ文化のまっただ中であった。新宿へ行っても、銀座へ行っても、浅草へ行っても、文化の頽廃を憂慮する鈴木中尉は、やがて教育改革による国家改造を構想するようになる。

 ここで、当時の軍隊の帝国大学派遣制度について考えたい。

 20世紀前半の職業軍人の考える課題で、重要なことのひとつは、「国家総力戦」とはいかなるものであるのか、それを実行するためには、いかなることをすればよいのかということであった。第一次世界大戦を視察した永田鉄山少将が気がついたことは、西欧の社会では、一般社会の規律と軍隊の規律が接近しているということであった。つまり、総力戦体制とは、「社会全般の軍隊化」を意味しているのだという認識である(なんとなく、アタリマエのような気がしないでもないが、当時は大発見であった)。そこで、永田は、社会の変化に対応するために、将校を帝大に聴講生として派遣する制度が必要であるとし、これを置いた。この制度が生み出した一人が教育将校鈴木庫三であった。この東京帝大派遣生から、後の満州事変以後の陸軍の中堅エリート将校が育っていった。彼らが観念的で政策的には無力であった「皇道派」と呼ばれるグループを陸軍の中央から追い出し、後の太平洋戦争に至る国策の遂行と国家総動員体制を担った者たちであった。

 帝大生である鈴木大尉は、教育の分野で永田少将が考えていたことと同じようなことを考えていた。本書の佐藤氏の指摘で注目すべきことは、「国家総力戦体制のプランナーであった永田鉄山の延長戦上に、後に鈴木少佐が唱えた「教育の国防国家」は存在した。」ということだ。軍隊は、軍事のスペシャリストであるだけではなく、もっと広い国家の行政官的能力も必要だという「永田の発した問いに答えることが、鈴木の課題であった。」という本書の記述は重要である。(ただし、昭和の軍隊は、そもそも軍事のスペシャリストですらなかったのでないかというシバリョー的疑問はあるが、それは別の話である。)

 鈴木日記によると、彼は北一輝や大川周明の本は読んでいなかったようであるが、その思想は知っていただろう。2.26事件で決起部隊を動かした香田大尉や安藤大尉の歩兵第一連隊や第三連隊と、鈴木大尉が所属する輜重兵第一大隊は同じ第一師団である。ただし、士官学校の年次が違う。鈴木は33期、香田は37期、安藤は38期であり、年代が違う。それに、2.26事件の青年将校は歩兵科である。また、鈴木大尉は、「皇道派」の観念的な農本主義が信用できなかったようだ。彼は「統制派」の桜会のメンバーであった。陸大卒の集まりでもある「統制派」に、陸大卒ではない鈴木大尉が入ったということは、帝大派遣生である鈴木大尉は、実質的には陸軍の逸材になりつつあったということであろう。

 東京帝大を卒業し、1937年、鈴木大尉は少佐に昇進する。昭和言論史にその名を残す「鈴木少佐」の誕生である。所属は陸軍省情報部。ここで鈴木少佐は、教育国家の建設を提唱する。それは以下のようなものである。公立中等学校は、国民の税金でまかなわれている。誰でも試験に合格すれば、入学できるタテマエになっている。しかしながら、実質的には合格できるのは、学習環境を整えることができる高額所得者の子弟のみである。そこで、鈴木プランによれば、尋常小学校の6年間と中等学校の5年間を10年制国民学校として義務教育とする。費用は、一切国が負担する。卒業後の男子はすべて軍隊に入隊させる。そして、おのおのの技能に応じて、ある者はさらに上位の教育機関へ進み、またあるものは実地の職業訓練を受ける。成績だけではなく、人物の身上評価を重視する。といったものであった。

 さらに鈴木少佐は、国内思想戦を提唱する。これは、学校教育の大半を軍隊教育的に行うというものである。教養のための教育は排除され、国家防衛のための一元化した教育を行っていくというものである。

 鈴木少佐は、国内思想戦の観点から、吉本興業(なんと、戦前からあった!)から国防文芸連盟、映画、演劇に至るまで指導し、講演し、執筆活動を続けていった。この時期の鈴木少佐について、戦後、数々の誹謗、中傷、罵詈雑言が出版界からわき上がった。しかしながら、佐藤氏は本書で、そのどれもが事実無根であるとしている。

 むしろ、鈴木少佐の日記からわかることは、軍部の横暴に抵抗するとしながら、実際は、出版社やマスコミや言論人は、軍部に協力していたということだ。紙の配給を軍部が管理していたため、いかに軍部に取り入るかが出版社の懸案であった。そのために、鈴木少佐は出たくもない酒席に出なければならないことの嘆きが日記に残されている。もちろん、出版社やマスコミも営利商売である以上、ある程度は軍部と癒着しなくてはならなかったであったろう。戦争協力も、本心からではなく商売上やむをえなかったこともあろう。しかし、戦後、まるで最初から自分たちは戦争に反対していたかのように回想し、戦争の悪を鈴木少佐一人にかぶせることで、自分たちは被害者であったのだとすることは、まぎれもなく欺瞞であろう。岩波書店ですら、こうだった。

 鈴木庫三は、軍人らしくない、学者のような軍人であったという。英書や独書を読み、技術的な合理主義の思考をし、カントを原書で講義できる人であった。頽廃した日本の文化を憂慮し、社会主義の台頭に危機感を感じ、自由主義を批判し、あるべき教育国家のあり方を模索した人だった。その模索の方向が軍事的であったのはやむを得ない。彼は軍人なのである。こうした人が、昭和の陸軍にいたことは僕にとって驚きであった。

 鈴木少佐が、今の平成日本の教育を見た時、なにを考えるだろうか。

毎日新聞での著者へのインタビュー記事

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Comments

「言論統制」、週刊朝日で書評を読み、面白そうだな、と思っていました。

「言論界への“弾圧”で知られた軍人鈴木庫三はとてもいい人だったらしい」
「マスコミと軍部とはむしろ共犯関係に近い」などとありました。
それが、戦後間違った形で私たちに伝えられたのは、マスコミの創作だったわけですね。
いつの時代もマスコミには気をつけないといけませんね。

真魚さんの文章を読むと、本を読んだような気になります。

Posted by: robita | October 12, 2004 03:42 PM

>>真魚さんの文章を読むと、本を読んだような気になります。<<

ああっいけません。本を買って読まなくてはいけません。(^_^;)

「よい人」だったかというと疑問です。「言論統制」をやる側だったわけですから。

マスコミと軍部が共犯というのも、いまの記者クラブみたいなものです。このへんはむずかしいところで、景気のいい記事を載せなくては売れないのは確かなわけで。もし仮に、真実の記事が書けたとしても(そんなことは不可能でしたが)、読者は読まない、買わないと思います。ある意味で、マスコミとは、読者や視聴者のニーズ、つまり、消費者の見たいもの、読みたいものを提供すれば「売れる」という商売である、という一面もありますから。マスコミとは、そういうものなのだと思っていた方がいいです。

Posted by: 真魚 | October 13, 2004 04:01 AM

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