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October 2004

October 28, 2004

美は乱調にあり

 アメリカといっても、僕が知っているのはサンフランシスコぐらいなのであるが、お店でものを買うときがちょっと楽しい。お店といっても、macy'sとかSAKSとかNORDSTROMとかでカードで買うような買い物ではなく、そのへんの小さな雑貨屋とか食料品屋とか本屋さんとかのことだ。

 なにが楽しいのかというと、レジでお金を払うときだ。ちなみに、僕はいまだにコインの種類の判別が瞬時にできない。例えば、1ドル75セントと言われた時、えーと、1ドル紙幣と、75セントだから、このquarterが2つで、えーと、50セントだから、えーと、あと25セントって、10セントが2つと、えーと、という感じで、英語というより算数の能力がないとしか言いようがない。だから、こういうときは、さっと1ドル紙幣2枚を出しておつりをもらうことにしている。従って、いつも財布にはコインが大量に貯まるのだ。このコインというのは、例えば日本に持って帰ってきて、CITIBANKにもっててもドル預金口座に入れてくれないし(円をドルに変換しなくてはドル預金ができないのだ。それに、日本のCITIBANKは手数料が高いのはムカつく)、紙幣にも交換してくれないのでひたすら貯まる。なんとかしなくては。

 で、アメリカでレジでお金を払う時、何が楽しいのかというと、たいていレジの人と二言三言会話をする。買う物をお店の人のところへ持って行くと、店の人が"Hi,How Are You"とか言ってくる。こっちも、"Fine."とか言って、さらに「雨がふりそうですね」とか「このリンゴおいしそう」とか言うわけであるが、まあ、これはお決まりの会話みたいなもので、必ずしも心がこもっている会話というわけではないけど。

 僕が好きなのは、週末の買い物だ。お金を払って、買い物袋をもってお店から去る時、店の人が"Have a nice weekend."と言うことが多い。こうした時、"You too."とか返事をして店を出る。時には、こっちからそう言うこともある。年末のクリスマス間近の週末だったら、"Have a nice weekend and Merry Christmas to you."と向こうが言ったり、こっちから言ったりする。たわいもない会話なのかもしれないが、こうした会話ってあると楽しい。

 日本では、こうした会話はない。いや、できなくはないのであろうけど、近所の生協での買い物も、コンビニでの買い物も、黙ってレジでお金を払い、黙って店を出る。例えば「良い週末を」とか言うようなものならば気障っぽいと思われるだろう。見知らぬ人間どおしでも、"Hi,How Are You"で会話ができるアメリカと、見知らぬ人間はあくまでも見知らぬ人間であってそれ以外の何者でもない、コミュニケーションを始めるためには、まず「すみません」と言わなくてはならないという、まことに重ったるい決まり事がある日本の文化との違いは大きい。

 いつも直球「ど真ん中」の思考を表明するkakuさんの「少子時代の“健全”であることの難しさ」を読んだ時、アメリカでのような見知らぬ人とのちょっとした会話の楽しさって日本はないなと思った。kakuさんは、人間の喜怒哀楽を「他人に危害を加えない範囲内で表現すること、これまた人間としてごくごく“健全”な行動であると私は思う。」と書いている。この「表現」というのは、言葉であり、あるいは身振りではないのだろうか。それらがあまりも貧困なのだと思う。そして、kakuさんはこう書く。「そして、その「表現」行動に対して他人から反応が起こってくる…これまたごくごく“健全な”人間関係の姿ではないか。」まことに、その通りだと思う。

 ここで、kakuさんの意見を僕なりに考えてみたい。kakuさんが言われる喜怒哀楽を「他人に危害を加えない範囲内で表現すること」は、確かに「健全」な行動であると僕も思う。しかし、そのためにはそれを可能とする「場」と「関係」が必要なんだと思う。そして、現代の僕たちの不幸は、そうした「場」と「関係」が喪失してしまったということではないだろうか。

 具体的に考えてみよう。人が喜怒哀楽を自由に表現するには、「自由に表現してもいい」という「場」が必要であり、自分の感情をさらけ出しても安全な信頼できる他者との「関係」を必要とすると思う。例えば、満員電車の中で自分個人の喜怒哀楽を出されては迷惑だろう。もちろん、kakuさんは「他人に危害を加えない範囲内で表現する」と書いている。しかしながら、ではその「他人に危害を加えない範囲内で」(これを「他人に迷惑をかけない範囲内で」と言い換える)表現できる「場」とは、今の世の中でどこにあるのだろうか。どこもかしこも、たくさんの人がいて、抑圧的に管理されている「場」になっているではないか。

 さらに、最近では成果主義が主流になりつつある。物事を「勝ち組」と「負け組」で二分割する人々が増えてきたという。誰もが、自分は「負け組」ではないのだと思い込もうとしているという。他者に対して、完全に無視をするか、あるいは恐怖と競争意識の対象としてしか見ることができない世の中になってきたようだ。ようするに、他者を信頼できない。信頼できる他者がいない。こうした状況で、自分の感情をストレートに出すことは、相手からどんな反応が返ってくるかわかったものではない。むしろ感情の発露を押さえようとするのが「正常」な自己防衛本能だろう。

 つまり、今の僕たちは、好きで人間関係を希薄にしているのではなく、むしろそれ以外の選択がなかったからそうしているのだ。病的な世の中で、自分だけは「正常」でありたいと願った結果が、「ディス・コミニュケーション」であり、あるいは「コミニュケーション不全」という病理だったというわけだ。人間関係を希薄にしなくては、逆にこちら側の心が崩壊していたかもしれない。

 しかし、「正常」な自己防衛機能であったとしても、「不適応」であることにかわりはない。かくて病的な社会への極小的な適応をする病める「少年」や「少女」たちは、やがてウォークマンで耳を塞ぎ、アニメやマンガやパソコンやゲームやリストカットや拒食症や過食症や宗教信仰や少年愛などに、自分の興味の対象を限定して生きていく方法を見出していった。その閉塞的な場を自己の感情の表現の「場」とし、その中で自分の喜怒哀楽を表出してきた。一歩バランスを崩せば、犯罪者か精神異常者になるかもしれないというきわどい線上を常に歩きながら。実際に、その線上の向こうへ行ってしまった者たちも数多くいた。

 そのどこが悪いのか。そうであっては、なぜいけないのか。実は、僕はこれまでそう思っていた。しかしながら、いつのまにか、それではいけないと思うようになってきた。

 なぜいけないのか。それは、自閉的な場の中でどんなに美しく自己完結をしていようとも、それはなんの成長も変化もないということに気がついたのだ。自分と自分の興味の対象以外のものの存在を知覚しないという精神構造を持っているということは、生活をしていく上で、いやでも遭遇せざる得ない「自分と自分の興味の対象以外のもの」を前にした時、それを不用なデータを削除するかのように淡々と排除するであろう。

 人は生きていくために、自分の美意識を持つことは必要だと思う。しかし、自分にとって異質なものを排除していくことによって作られた秩序は、とてもピュアであり美しくはあるが、もろくて弱い。やがて緩慢な死を迎えるだけだ。つまり、自分の価値や美意識は持ち続けるべきであるが、それは固定した自閉構造なのではなく、「自分と自分の興味の対象以外のもの」との関係を自発的に形成し、自分で自分を自己組織化していく価値や美意識でなくてはならないということだ。それは時としてピュアな美しさではないかもしれない。しかし、美とはピュアなものの中にのみ存在するわけでなく、むしろ、混沌やランダムネスとの関わり合いの中にもあるかもしれない。あるいは、「美は乱調にあり」とも言う。

 そうしたことができる「場」や「関係」がないのは事実であろう。しかし、ないのならば自分自身で作っていくしかない。あいも変わらないこの国の固定的な人間関係の中で、自分で細々と関係を変える関係のようなもの作っていくしかない。荒れた大地に、種を蒔くように。

 kakuさんはこう書いている。「目先の何かに熱中することで空虚感を無かったことにしようとするのではなく、とことん自分の醜悪さや自分のダメダメさと向き合おうじゃないか、と。」これを僕の言葉で言えば、自閉的な場所で「自分と自分の興味の対象」だけに関わることはもうやめようということだ。

 さらに、kakuさんはこう書く。「そうしたらきっと自らその為の行動を起こそうとするはずである、と。行動を起こし時に訳も分からずもがいている内に、きっと、「空虚感」なんてなくなるはず。その時こそ、自分の事を自ら「負け犬」と皮肉っても壊れない自己を確立できる様に、なる。」これを僕の言葉でひとことで言えば、「美は乱調にあり」ということだ。(と、いっても僕のイメージでは、瀬戸内さんのあの小説ではなく、上々颱風というバンドがありまして、こういうタイトルの歌があります。こっちの方が好き。)

 乱調の中にある美を発見すること、感じること。そうした美意識を持つこと。それが「健全」であるのかどうかはわからないけれど、これからの自分はそれが必要なんだと思う。

October 26, 2004

The Washington Postはケリーを支持する

 Washington Post紙は、ケリーを支持することに決めたようだ。24日の社説で次のように書いている。

"On balance, though, we believe Mr. Kerry, with his promise of resoluteness tempered by wisdom and open-mindedness, has staked a stronger claim on the nation's trust to lead for the next four years."
(バランスの観点から見れば、我々はケリーを信用する。彼の英知と開かれた心による硬い決意の約束は、次の4年間、国家の信頼を導くことの強い主張を貫いている。)

 ブッシュの外交には良い面もあったが、しかし高く評価することはできないと書いている。

"These failings have a common source in Mr. Bush's cocksureness, his failure to seek advice from anyone outside a narrow circle and his unwillingness to expect the unexpected or adapt to new facts. These are dangerous traits in any president but especially in a wartime leader."
(これらの誤りは、ブッシュのうぬぼれによるものである。彼の誤りは、外部の者にアドバイスを求めることであり、彼のやりたくないこととは、期待しなかったものを受け容れなくてはならないことや、新しい事実に適応することである。これらは、いかなる大統領においても危険な特性であり、特に戦時体制ではそうである。)

 国内問題にしても、ブッシュ政権の業績は認めながらも、ブッシュの経済政策は"his reckless fiscal policy"(無謀な財政政策)であるとし、9.11で不況になった経済を減税を行うことでさらに悪化させた。ブッシュは、2000年の選挙の時、民主党のSocial SecurityとMedicareの問題への対応を非難したが、彼の政権になって、それらは全然解決していない。それでいて、有権者に大丈夫だ問題ないと根拠のないことをいっている。

 決して、ケリーを選択することに、リスクがないわけではない.

"None of these issues would bring us to vote for Mr. Kerry if he were less likely than Mr. Bush to keep the nation safe. But we believe the challenger is well equipped to guide the country in a time of danger."
(どの事柄も、もし万一、彼が国を安全に保たれなければ、私たちにケリーに投票させないようにする。しかしながら、私たちは、ケリーの方が危機にある国家を良く導くと信じている。)

 そして、最後にこう書いている。

"We do not view a vote for Mr. Kerry as a vote without risks. But the risks on the other side are well known, and the strengths Mr. Kerry brings are considerable. He pledges both to fight in Iraq and to reach out to allies; to hunt down terrorists, and to engage without arrogance the Islamic world. These are the right goals, and we think Mr. Kerry is the better bet to achieve them."
(決して、ケリーに投票することになんのリスクもないとは思っていない。しかし、ブッシュに投票することのリスクはよくわかっているし、ケリーの力強さは考慮することができる。彼は、イラクで戦うことと、同盟国との関係を保とうとすることの両方を約束する。テロリストを追いつめ、傲慢さなくイスラム世界に関与していく。これらは、正しい目標である。そして、ケリーに投票することは、それらを成し遂げるためのいい賭けだと思う。)

 当然ながら、NewYork Timesも民主党支持である。これで、Washington PostとNewYork Timesという2大新聞は民主党支持を表明したことになる。もちろん、共和党支持の有力新聞は他にあるわけであるが、少なくともこの2紙は民主党を支持し、ブッシュ再選に反対している。

October 25, 2004

根津神社

 24日の日曜日は、根津神社のお祭りでした。そこで、デジカメを持って根津神社から上野公園の不忍池まで歩きました。

 ココログのマイフォトを初めて使ってみました。持っているデジカメは、数年前のCanonのIXY DGITALの一番最初のタイプです。今の携帯電話のカメラとあまり変わらん。ブログの使い方のあり方のひとつとしての個人的な試みです。

October 22, 2004

『COYOTE』の特集「星野道夫の冒険」

 スイッチ・パブリッシングから出ている雑誌『COYOTE』創刊第2号の特集は、星野道夫。僕がこの写真家のことを知ったのは、雑誌『SWITCH』と池澤夏樹の本からだったと思う。1990年代のある時期、『SWITCH』は星野道夫や池澤夏樹や藤原新也の特集ばかりで僕の好きな雑誌だった。『SWITCH』もスイッチ・パブリッシングから出ている雑誌で、この時の編集長が新井敏記氏だった。最近の『SWITCH』はつまらないなと思っていたら、案の定、新井氏は『SWITCH』の編集長をやめた。そして、この人が今年新しく創刊した雑誌が『COYOTE』だ。

 『COYOTE』の今回の特集では、星野道夫その人の文章や写真とともに、アラスカの自宅の書斎の厖大な蔵書リストと彼が読んできた本の紹介が載っている。700冊の本のリストを見ながら、改めて星野道夫が見た世界はどんなものだったのだろうと僕は思う。

 この蔵書のリストからわかることは、彼はフィールドを旅する実践者であったと同時に、たくさんの本を読んできた読書家でもあったということだ。なにかアラスカで写真を撮っていた人というと、本を読むよりも実際の経験を重視するような冒険家タイプであるかのように思われるかもしれないが、彼はただの実践者ではなかった。

 星野道夫にとって、「見る」という行為は単なる写実的なものではなく、多様で多彩な自然や動物の風景を総合することだった。一つの風景から、その背後にある「もっと大きなもの」を感じることができた。そして、それを彼個人が「感じる」だけで終わりにするのではなく、それを写真として撮影し、文章として書いて、他者に伝えることができる人だった。そうしたことができたのは、、彼自身が書物から真摯に学ぶ人だったからだと思う。星野道夫は、本を読む人であり、旅をする人であった。書物から学び、自然から学び、そしてアラスカの先住民から学ぶことができる人だった。

 その学ぶ姿勢に、僕も学びたい。星野道夫が見ていた世界のほんの一部でもいいから自分もまた見ていきたい。しかし、そうは思っても、今すぐアラスカに行けるわけではない。日本の東京に住んでいて、コンビニや携帯電話やネットがなくては生活ができないような暮らしをしている。たくさんの機械と人間たちの中で、仕事に追われて生活している。

 だからこそ、僕はまだ見たことがないアラスカの風景のことを思う。星野道夫の写真と文章の向こうに、誰もいない氷原の夜空の上に舞うオーロラや、新春の川を渡るカリブーの群れや、冬眠から目覚めたブラックベアの親子の息遣いや、海面を跳ねる鯨の水しぶきを感じたい。生きていることも、死ぬことも、大きなつながりの連鎖の中にあることを感じたい。彼の写真や文章は、そうした思いに最も強く応えてくれるのである。

 星野道夫は、無窮の自然と僕たちの世界をつないでくれる希有の語り部だった。大きなつながりの連鎖の中から現れて、風のように生きて、誰も見たことがない自然について、たくさんのすばらしい写真と文章を僕たちに残してくれて、そしてまた大きなつながりの連鎖の中に帰っていった人だった。

「ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。」星野道夫『旅をする木』

October 21, 2004

BSEの全頭検査見直し

 BSE(狂牛病)の全頭検査見直し問題で、政府は、生後20ヶ月以下の牛の検査除外などを含めた見直し案を内閣府の食品安全委員会に諮問したという。

 食料の安全という意味で言えば、アメリカの人々は何に不安を感じることなく、今日もビーフを食べている。それは、牛肉の危険性があまりよく知られていないからだということもあるであろうが、そんなことはオンリー・ゴッド・ノウズなので、アイ・ドント・ケア。ノープロブレムなんだから、日本は早く牛肉輸入を再開しろというのが、アメリカの考えであろう。

 ところが、かたや太平洋の反対側のわが国の感覚では、こうしたアバウトな検査体制は納得できない。全頭検査をやるべきだというのが、日本の消費者の常識的感覚であろう。

 このアメリカ牛肉の日本への輸出問題でわかるのは、つくづくブッシュ政権は理解できないということだ。あの国は、旅客機がテロリストにハイジャックされて、貿易センタービルやペンタゴンに突っ込んでくるという出来事が起こるとあれほど大騒ぎをするのに、BSEについては「どおってことない」「ほんの一部の牛肉が危険なだけ」「うちは問題ない」という判断しかしない。この差は、一体なんなのであろうか。これは、ヤコブ病とBSEの関係はまだ解明されていないとか、アメリカ人の国民性はこーゆーことに神経質にならないということとは別の話だ。

 アメリカの牛肉市場での日本市場の割合の大きさを考えると、これは、ショーバイの話として考えなくてはならないのだ。本来、アメリカは、お客さんである日本(および、その他の国々)がどう思うかを考えなくてはならない。商品について、顧客側に不安や不信があったのならば、即刻、顧客側が納得する方法で解決しなくてならないことはショーバイのイロハであろう。そのことを思えば、別にアメリカに攻撃をしてきたわけではないサダム・フセインが、大量破壊兵器を持っていたかどうかというよりも、こっちの方がもっと重要だった。

 アメリカは日本側が受け入れることができる検査スタイルで、アメリカ牛肉の安全性を立証する必要があると判断するのが、常識的なビジネス感覚である。アメリカ牛肉には危険はないというのならば、大統領が国連で「アメリカ牛肉は危険ではない」と演説したっていい。そこまでしていいほど、(多少大げさに言えば)アメリカが国際社会でビジネスを行っていく上で、これは大きな問題だった。ましてや、自国の食料の安全のために、他国も認めるしっかりとした体制を作ることは、なによりもアメリカ市民にとって良いことであるはずだ。

 しかしながら、ブッシュ政権はそうしたことをしなかった。する必要すら理解していなかった、し、今もしていない。そして、テロ対策と称して、イラクの一般市民や子供たちの頭上に爆弾を落とすことをしてきた。共和党の経済政策は、軍事産業や石油産業に利益を与えることが、結果的にアメリカの国益になるという発想である。テロの危険性をあれほどやかましく言うわりには、自国の食料の安全性について、日本やヨーロッパの基準より遙かに劣るというのは一体どういうことであろうか。ブッシュが言う"homeland security"というのは、過激イスラム教徒によるテロ活動しか見ていない。少なくとも、foodはsecurityに入っていないようだ。

 そして日本に対しては、「日本の消費者は、早く安くておいしい牛肉を食べたがっているじゃないか」「アメリカ牛肉の危険はない」「ノープロブレム、ザッツオール」という政治的圧力で日本の輸入停止を無理矢理やめさせようとしている。やがて日本の政治家も外食業界からの突き上げを食らって、アメリカ牛肉の全頭検査なんて見直さざる得なくなるだろうと思っている。現に、そうなってきた。食料の安全性という、いわば国の根幹たるものの守りや、外国市場で地味なビジネスをこつこつやっていくということよりも、見かけが派手な軍事力による外国制圧を優先するという今のアメリカは愚かしいとしか言いようがない。

October 19, 2004

言葉が現実から離れている

 リベラル系ブログのTalking Points Memoの10月17日の記事に、Salon.comでの興味深い記事について書いてあった。そこで、僕もSalon.comの記事を読んでみた。この記事によると、ブッシュはケリーに対して形勢を優位にするために、こう言ったという。

"The best way to avoid the draft is to vote for me."
(徴兵制度の復活を避ける最良の方法は、私に投票することです。)

 なにゆえ、こうした言葉が口から出てくるのか。この言葉だけを聞いてみると、まるでケリーが大統領になれば徴兵制度が復活するかのようではないか。そして、ブッシュは徴兵制復活なんてことはまったく考えていない平和主義者のように聞こえるではないか。

 もちろん、ブッシュは徴兵制を復活させるつもりはない。それは今のところ事実である。しかし、ケリーもまた徴兵制を復活させるつもりはない。それもまた事実である。よって、当然のことながら、こうした言葉が出てくる根拠はない。必要もない。

 ところが、ブッシュは選挙を有利にするためには何を言ってもいいんだと思っているようだ。これは、選挙レトリックという高尚なものでもなんでもない。さらに、Salon.comの記事によると、

The president, fearing that young voters will be swayed by the charge, fired back, "The person talking about a draft is my opponent."
(大統領は若い有権者たちが非難によって動揺するのを恐れて、「徴兵について話している者は私の反対者です。」と応戦した。)

 もー、なんでもかんでも"my opponent"なのである。

 ケリーは、徴兵制について語ったか。イエス、彼は語った。しかし、それはブッシュが再選したら徴兵制復活の可能性があるかもしれないと言うことを語ったのであって、徴兵制を復活させるとは言っていない。

 ブッシュは、ケリーとの違いを主張したいのならば、徴兵制をもってくることはまったく意味がない。その意味がないことを、さも意味があるようにしゃべるのがブッシュの特徴だ。もし、徴兵云々を持ち出してきたいのならば、実際のところ、予備役召集の動員数を増やしているのは、ケリー上院議員ではなくブッシュ大統領の方なのである。今のところの論点は、徴兵よりも予備役召集であろう。

 この世の中は、ある一定の現実性に基づいて成り立っている。それを作っているのは言葉だ。ところが、ブッシュの言っていることは、その現実性をまったく無視して、自分だけの「現実」を作りだしている。Josh Marshallが書いているように、"Words divorced from reality."(言葉が現実から離れている)のだ。

 上記のことは、今に始まったことではないが、大統領選挙戦も終わりに近づきつつある今日。最近のブッシュの言動は、選挙に勝つためには、何を言ったっていい状態になっているようだ。

October 17, 2004

『機動警察パトレイバー2』の評論をアップしました

 さる8月15日に東京ビッグサイトで開催されました「コミックマーケット66」にて、押井守メーリングリストが同人誌の最新号「犬からの手紙 第6号」を販売しました。その中で僕が書いた押井守監督映画『機動警察パトレイバー2』の評論をアーカイブにアップロードしました

 内容は、アニメ評論というより、自衛隊の話です。アニメ映画を通して、自衛隊と戦争をここまで語ることができるのは、押井さんの『機動警察パトレイバー2』以外にありません。僕は、今後もこの作品について考えていくと思います。

 「犬からの手紙 第6号」は映画『イノセンス』特集です。押井守監督のインタビューも載っています。現在もK-BOOKSとらのあなにて委託販売中です。通販も可能ですので、通販を希望の方は 各ショップにお問い合わせください。

October 15, 2004

『花とアリス』

 岩井俊二監督の『花とアリス』DVD特別版を見た。映画館で見ようと思っていたのだけど、見に行けなかった。DVDが出たのでようやく見れた。あの『リリイ・シュシュのすべて』の次の作品だから、今度はまったく内容を変えて、かわいい女の子2人の、ほのぼの物語なのだろうと思っていたら、まったく違う。いい意味で、その期待が外れた。DVDのパッケージには「かわいい短編か何かだと思ったら大間違い。めまいのするようなジェットコースタームービーにして、超重量級の感動!」と書いてあるが、まさにその通り。いろんな出来事が次から次へと起こる。見ていて飽きない。

 岩井監督の作品は、本当に映像が美しい。もはや、映画を超えたナニカと表現してもいいほど美しい。岩井監督の作品の良さは、もちろん岩井監督自身の天才性にあると思うが、撮影監督の篠田昇の存在が大きいと思う。技術的に見るのならば、岩井監督の映像美の背後には、今の時代のデジタル映像技術がある。従来の映画の制作方法では、大きな機材と数多くのスタッフがいなくては撮影ができなかったのに対して、今の時代は、撮影機材も編集マシンも、極端に言えば、SONYのハンディカムとマックと大容量のハードディスクがあればそれでできてしまう。このことが、映像により一層の作家性を持たせることを可能にしているのだと思う。

 この映像のデジタル革命の先頭を走っていたのが、『花とアリス』の撮影監督である篠田昇である。この人が初めてスクリーンにハンディカムを使用した人である、と言われている。テレビ番組の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』で、テレビ界では異例の日本映画監督協会新人賞を受賞した岩井俊二監督の映画デビュー作『Love Letter』(1995年)の撮影担当が篠田昇であり、彼はこの映画で、本格的にハンディカムを使用して、映像の新しい地平を開いた。映像の現場にハンディカムの導入を提案したのは、そもそも岩井監督だったという声もあるが、ようするに、この2人は同じようなことを考えていたのだと思う。岩井映画は、岩井俊二の感性と篠田昇の先見的な撮影技術が生み出したものなのだと言ってもいい。

 憧れのセンパイをゲットするためにウソをつくハナ(鈴木杏)。お前、そーゆーウソはイカンだろ、ウソは、と思わず言いたくなるけど、こうゆうウソを言ってしまうハナの気持ちもわからないでもない。『花とアリス』の物語は、親友同士の2人の高校生ハナとアリス(蒼井優)のセンパイをめぐる恋の三角関係のラブコメ(やっぱ、これはラブコメだよねえ)である。しかし、ところどころの何気ないシーンに、ハッとしたり、なつかしかったりする風景や構図があったりして、だだのラブコメではない。見ていて、僕も、ああっ高校はブレザーだったなとか、自転車通学だったけど、たまには電車で通ったなとか、部活が、とか、思い出したくないことも含めて思い出してしまった。

 ハナの性格って、おもしろい。一見、学級委員長のような真面目な子なのかなと思っていたら、ところが、どうしてどうして、そりゃもう。なんか見ていて、すごくなつかしい子に出会ったような気持ちになる。アリスとつかみ合いのケンカまでしたハナであったが、センパイの気持ちを想い、とうとう真実を泣きながら話す。ちゃんと、自分のついたウソに自分で決着をつけていた。

 アリスが別居しているお父さんと会うシーンも良かった。このお父さんは、妻と娘を捨てたような、どうしようもない程ごく平凡の口べたの中年男なのであるが、娘に高校の入学祝いにと万年筆を手渡しながら、この万年筆は、使わないのだけど、なぜかいつも引き出しの中にあるんだよなあと言うシーンで、このお父さんは、生真面目で実直ないいお父さんだったんだと思った。ぎこちなくしているけど、アリスも、このお父さんが嫌いではなかったんだと思う。このお父さんと会うシーンがあることで、母親との家庭崩壊が進行する中で、後で、海岸でセンパイが拾ったトランプのカードのことを知った時、涙を流すアリスの気持ちがよくわかる。

 最後のアリスのダンスシーンは、見ているこちら側がぴしっと背筋を伸ばして座り直した程、清らかさと静謐な美しさを感じた。バレエというのは、こんなに美しい動きをするものだったのかと改めて思った。お父さんのこと、お母さんのこと、センパイのこと、ハナのこと、そして、これからの自分のこと。数多くのものを背負いながら、それでも前向きに生きていこうというアリスの意思のようなものを感じた。

 『リリイ・シュシュのすべて 』を見終わった時は、すごい鬱になったけど、『花とアリス』を見終わった後では心が温まった。そして、今の自分はあの頃から遙か遠くに離れてしまったことを感じた。高校時代は、楽しかったなあ。

 篠田撮影監督は、この映画を撮り終えた後、病気で亡くなられた。これほどの見事な映像美のある作品と、これからさらに発展していくであろうパーソナル・メディアによるデジタル映像テクノロジーを残してくれた氏のご冥福を心からお祈りいたします。

October 12, 2004

佐藤卓己著『言論統制』を読みました

 佐藤卓己著『言論統制-情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』中公新書(2004)を読んだ。僕が今まで読んできた中公新書の中で歴史書のベストは、山内昌之著『ラディカルヒストリー』中公新書(1991)であるが、それに並ぶ良い歴史書であった。

 鈴木庫三は、陸軍少佐であり内閣情報局情報官として、戦前の出版・思想界の言論統制の任にあたった人である。外交評論家の清沢洌が「日本思想界の独裁者」と呼び、数多くの出版人が言論弾圧の「元凶」と指さした人である。中央公論社の嶋中雄作社長に「(お前のような自由主義の出版社は)叩きつぶす」とどなりつけ、戦後、石川達三の小説『風にそよぐ葦(あし)』の中でも「佐々木少佐」として登場し、紙の配給権を盾に出版社に脅しをかける言論の独裁者であった。

 僕たちは、戦前の日本のことを考える時、必ず思うことは、軍部の剣の前に知性のペンは沈黙したということだ。ようするに、軍部が自由な言論を無理矢理に押さえつけた。その軍部の軍人として最も悪名高いのが、この鈴木少佐であった。鈴木少佐に脅されたという出版社は、中央公論社だけではなく、岩波書店、講談社、実業之日本社などもまたそうであり、それらの出版社の社史には、鈴木少佐は言論弾圧の代名詞のように出てくるという。言論はあくまでも軍部(鈴木少佐)と戦おうとしたが、やむなく従わざるを得なかったというわけである。

 ところが、これらのことは戦後、出版社や言論人たちが作ったデタラメであった。

 これは、最近、鈴木庫三の自宅から発見された日記を調査することによって初めて明らかになった。鈴木少佐とは、決してそのような人ではなかったのだ。それを、佐藤氏は本書で論理的に実証的していく。鈴木少佐は、そうした独裁の人ではなかった。彼は、軍人でありながら、日大や東京帝大に学び、倫理学の助手として大学の教壇にも立ったことがある異色の軍人であった。本書で明らかになった鈴木少佐の生涯と思想、戦前と戦後の言論界の姿は極めて興味深いものであった。

 鈴木庫三は、1894年(明治27年)に茨城の農家に生まれた。生家は豪農であったが、6男4女の第7子であったためか、生後まもなく、里子に出されている。養家の経済状態は、庫三が小学校に通うあたりから悪化していったが、養父母は愛情を持って養育してくれた。成績はクラスで一番、級長であった。しかし、貧乏のため遠足に行く着物や小遣いがなく参加できなかったという。

 この少年が、初めて出会った世紀の大事件は日露戦争であった。庫三は、小学校を卒業の後は、陸軍幼年学校へ進学することを望んだ。しかし、一家の農作業を支えていたこの少年がいなくなれば、最低限の生活すらできなくなることを危惧した養父はこれを認めなかった。幼年学校は、戦死者遺児の官費生や半額免除の陸海軍の将官の子弟以外は、事前に3年間の学費納金が必要であり、この金額は一般中学校よりも高額であったようだ。このことは、僕は知らなかった。軍の学校なら一般の公立中学より安く、だから、学力はあるが貧乏で中学へ進学できない子供が軍の学校へ行くのだと思っていた。明治の初期の頃はそうだったと思う。しかし、明治の末あたりでは、そうではなくなったようだ。むしろ、中学進学よりもカネが必要なのであった。

 進学を断念した少年は、この頃設立された帝国模範中学会の通信会員となり、農作業の合間に講義録をひもとく。少年は、地主と交渉して小作地を増やし、杉山を開墾し、その作業の合間に、日雇いで土木作業でも運搬でも何でもやり家計に入れたという。ようやく家の借金にもめどがついた1913年、庫三は陸軍砲兵工科学校を受験し、合格する。この少年は、砲兵に関心があったからここに入学したのではなく、下士官が士官学校を受験するには数学や物理、化学を学んだ砲兵工長に限られていたからである。もちろん、幼年学校へ進学していれば、そのまま士官学校受験ができたわけであるが、幼年学校コースではない庫三にとって、陸軍士官になるにはこの道しかなかった。

 砲兵工科学校に入学した庫三は、次の目標である陸軍士官学校の受験に邁進する。受験勉強につぐ受験勉強の日々である。勉強をしていない日はなかったという。1915年、砲兵工科学校の卒業成績は10番で、三等銃工長として卒業する。ここに職業軍人としての鈴木庫三の生涯が始まる。二回の士官学校受験に失敗し、三度目の1918年、合格する。翌年から、市ヶ谷台の陸軍士官学校の生徒となる(陸軍士官学校は市ヶ谷にあった。このナニナニ台というのは、軍隊で学校がある場所のことを意味する。ちなみに、この用語は今の自衛隊でも使用している。防衛大学は小原台である。)

 士官学校の入学の前に、配属兵科が決定される。輜重兵科であった。輜重とは、兵站、つまり戦場へ武器弾薬・食料等を補給する部隊である。この兵科の決定は、鈴木士官候補生のその後の軍隊でのキャリアを決定したといってもいい。軍隊でのエリートコースは、歩兵科である。歩兵科の士官として陸士陸大を卒業し参謀将校になれば、それだけでもうエリート軍人としての生涯が決定する。さらに陸大での卒業順位が上位クラスであれば、将来は将官になれることは決定であろう。軍隊というのはそういうところであり、基本的にこれは今の自衛隊も変わっていない。今日でも、自衛隊では防大や幹部学校の卒業年度と順位が人事を決定する。しかし、輜重兵科ではまず出世はできなかった。(ちなみに、今日の陸自では、補給部隊の士官がそうであるかどうかは知らない。)

 戦国時代の武将は、兵站の重要さをよく知っていた。日露戦争でも、物資の補給は重要視されていた。ところがなぜか、日露戦争後の日本陸軍は、その滅亡に至るまで、logistics(兵站)というものを徹底的に軽視していた。大量の物資を瞬時に消耗する近代戦では、兵站は作戦行動の要中の要であるが、日本軍はこの重要性を理解しなかった。歩兵の攻撃精神だけで戦争は勝つという思考は、まるでヤクザのケンカのレベルであり、軍人という軍事の専門家が考えることではなかった。なぜこの程度の認識しか昭和の日本軍にはなかったのか、昭和史の謎である。

 輜重兵科であるということは、陸軍大学受験合格はかなりむずかしいということになる。輜重兵科で、陸大に受かる数は少なかった。さらに、鈴木少尉の場合、1923年に24歳で士官になったということは、「任官2年以上、30歳以下」という陸大受験資格にひっかかることであった。鈴木少尉に、陸大受験の道は閉ざされていた。そこで、彼は陸大卒組に強烈な対抗意識を持ち、新たなる目標として軍隊教育学の専門家となる道を選ぶ。

 この時、連隊勤務の中で、鈴木士官候補生は、1年志願兵を「文弱」と見なし、懐疑的な視点で見ている。1年志願兵は、入隊中の食費、衣服、装具、弾薬代、兵器修繕費の一切を自費でまかっていた。つまり、そうした裕福な階級の子弟たち向けの制度であった。一般兵とは異なり、除隊時には予備役伍長になる1年志願兵は、階級差別待遇の制度であったという。これに対して、鈴木少尉は一般の初年兵を暖かいまなざしで見ている。彼は、家が貧しいがために幼年学校に行けなかった。そのために、回り道をしてようやく陸軍士官になった。しかし、その回り道のおかげで陸大には行けなかった。司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、明治の初期の若者であった秋山兄弟は家が貧しいから軍の学校へ行った。それができた時代だった。明治末には、日本は露骨な階級社会になっていたのである。

 鈴木士官候補生の士官学校時代は、大正デモクラシーの時代であった。アメリカのウッドロー・ウイルソン大統領が、「人類最後の戦争」と呼んだ第一次世界大戦が終わった頃である。軍縮が叫ばれ、国際的な反戦ムード、平和主義の時代であった。その中で、イギリスのロイド・ジョージが提唱した徴兵撤廃論は、日本国内でも話題になっていた。『中央公論』では、東京帝大法学部教授の吉野作造が、各国が徴兵撤廃を行うのならば日本も徴兵制撤廃を行うのは妥当だと書いていたという。戦争がないのだから、軍隊など不必要だという意識が広まった時代であった。こうした時代を、鈴木士官候補生はどう見ていたであろうか。彼の当時の日記には、「帝国軍人有志」による檄文が貼り付けられていたという。士官学校の正門前でも配っていたものを、彼もまた手にとって読んでみたのだろうか。その檄文には、軽佻浮薄な平和軍縮ムードを批判し、白人覇権の国際的現実の前に、帝国軍人が果たすべき使命が書かれていたという。

 士官学校の生徒は、その多くは農村出身者であった。この時代の日本の都会と農村のライフスタイルの違いは、平成の今からでは想像もつかないほど大きかった。当時の日本全部がほとんど農村的であり、都会は一部の裕福な階級の贅沢文化と見られていた。都市文化と農村文化の対立は、この時代の日本を理解するキーである。地方の中学卒業者の多くは、士官学校への進学を望んだ。これに対して、都会の裕福な階級の息子は、中学卒業後は高校へと進学する。ようするに、士官学校から見れば、都会の金持ち階級は、中学から高校そして大学へと進学する贅沢なブルジョアであり、批判すべきものであった。佐藤氏は本書の中で、フランスの社会学者ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」という用語でこれを表現している。「ハビトゥス」とは、「社会的に形成された習慣」であり、「出自や教育に規定された実践的感覚であり、行為や言説を構造化する心的システムである。」そして、佐藤氏は「この意味で士官学校は、農村的ハビトゥスを再生産する文化装置であった。」と書いている。

 僕が、この本を非常におもしろいと思ったのは、冒頭に挙げたような陸軍少佐鈴木庫三のイメージが、戦後の出版界で言われていたものとまったく違っていたという事実が判明したということではなく(そもそも、鈴木少佐のことを僕はまったく知らなかった)、むしろこのハビトゥスの違いによる対立である。後年、鈴木情報官は自由主義知識人(つまり、リベラルな人々)と真っ向から対立するが、それはこの農村の文化を背後に持つ帝国陸軍鈴木少佐と、都会の文化で育ち、「趣味の戦争」をやっている自由主義知識人のハビトゥスの対立であったのだ。さらに、海軍は出身者が都会の中産階級が多く、ここでもまた陸軍と海軍の対立は、農村と都市のハビトゥスの対立であった。

 つまり、陸軍から見れば、都会出身で、都会の高校から大学へ進学した自由主義知識人は、反国家的で低俗で堕落したブルジョア連中であり、「膚が合わない」んだったのだと思う。同様に、海軍もまたブルジョアぽくって「膚が合わな」かったのだ。金持ち階級や高学歴エリートの自由主義者は勝手なことを言い、その一方でソビエトの援助を受けている社会主義者は国内でテロを起こしている。労使対立は激化し、世界恐慌以来、景気はよくならない。このような国家の危機を救うのは帝国陸軍だけだと考えてもおかしくない。このことを逆から言えば、自由主義知識人が、どれだけ軍部の単純な考え方を批判しても、軍部はそれを受け容れることはしなかったということだ。軍部と知識人の間にある、暗黙の「不平等」のようなものがある限り、軍部は知識人を受いれることができなかったのだということである。ちなみに、都市文化の最大のシンボルはアメリカであった。

 陸大進学を断念した鈴木少尉は、士官学校後、まず陸軍砲工学校を受験し、これに合格する。なぜ、砲工学校なのか。それは砲工学校は、帝国大学への派遣制度があったからである。陸大に行けないのならば、帝大を目指そうとしていた。鈴木少尉は、自らを「プロレタリア少尉」と呼び、部下の面倒を良くみたという。この頃に家庭を持ち、勉強机を「奮発シテ購入」したという。華美虚飾の生活よりも、シンプルライフを好み、成金趣味を嫌った。文学や芸術は堕落していると思っているが、だからといって、文学や芸術を理解していないわけではなかった。日大の予科の夜学に通い、文学や芸術の講義もとっていたという。美術館や劇場にも足を向けていた。

 中尉となり、昼間は軍務に追われ、夜間は日大の倫理学助手として教壇に立つ鈴木は、ついに帝国大学に派遣されることになる。鈴木中尉が、東京帝国大学の学生として見た1920年代の東大のキャンパスは、マルクス主義思想ブームとジャズ文化のまっただ中であった。新宿へ行っても、銀座へ行っても、浅草へ行っても、文化の頽廃を憂慮する鈴木中尉は、やがて教育改革による国家改造を構想するようになる。

 ここで、当時の軍隊の帝国大学派遣制度について考えたい。

 20世紀前半の職業軍人の考える課題で、重要なことのひとつは、「国家総力戦」とはいかなるものであるのか、それを実行するためには、いかなることをすればよいのかということであった。第一次世界大戦を視察した永田鉄山少将が気がついたことは、西欧の社会では、一般社会の規律と軍隊の規律が接近しているということであった。つまり、総力戦体制とは、「社会全般の軍隊化」を意味しているのだという認識である(なんとなく、アタリマエのような気がしないでもないが、当時は大発見であった)。そこで、永田は、社会の変化に対応するために、将校を帝大に聴講生として派遣する制度が必要であるとし、これを置いた。この制度が生み出した一人が教育将校鈴木庫三であった。この東京帝大派遣生から、後の満州事変以後の陸軍の中堅エリート将校が育っていった。彼らが観念的で政策的には無力であった「皇道派」と呼ばれるグループを陸軍の中央から追い出し、後の太平洋戦争に至る国策の遂行と国家総動員体制を担った者たちであった。

 帝大生である鈴木大尉は、教育の分野で永田少将が考えていたことと同じようなことを考えていた。本書の佐藤氏の指摘で注目すべきことは、「国家総力戦体制のプランナーであった永田鉄山の延長戦上に、後に鈴木少佐が唱えた「教育の国防国家」は存在した。」ということだ。軍隊は、軍事のスペシャリストであるだけではなく、もっと広い国家の行政官的能力も必要だという「永田の発した問いに答えることが、鈴木の課題であった。」という本書の記述は重要である。(ただし、昭和の軍隊は、そもそも軍事のスペシャリストですらなかったのでないかというシバリョー的疑問はあるが、それは別の話である。)

 鈴木日記によると、彼は北一輝や大川周明の本は読んでいなかったようであるが、その思想は知っていただろう。2.26事件で決起部隊を動かした香田大尉や安藤大尉の歩兵第一連隊や第三連隊と、鈴木大尉が所属する輜重兵第一大隊は同じ第一師団である。ただし、士官学校の年次が違う。鈴木は33期、香田は37期、安藤は38期であり、年代が違う。それに、2.26事件の青年将校は歩兵科である。また、鈴木大尉は、「皇道派」の観念的な農本主義が信用できなかったようだ。彼は「統制派」の桜会のメンバーであった。陸大卒の集まりでもある「統制派」に、陸大卒ではない鈴木大尉が入ったということは、帝大派遣生である鈴木大尉は、実質的には陸軍の逸材になりつつあったということであろう。

 東京帝大を卒業し、1937年、鈴木大尉は少佐に昇進する。昭和言論史にその名を残す「鈴木少佐」の誕生である。所属は陸軍省情報部。ここで鈴木少佐は、教育国家の建設を提唱する。それは以下のようなものである。公立中等学校は、国民の税金でまかなわれている。誰でも試験に合格すれば、入学できるタテマエになっている。しかしながら、実質的には合格できるのは、学習環境を整えることができる高額所得者の子弟のみである。そこで、鈴木プランによれば、尋常小学校の6年間と中等学校の5年間を10年制国民学校として義務教育とする。費用は、一切国が負担する。卒業後の男子はすべて軍隊に入隊させる。そして、おのおのの技能に応じて、ある者はさらに上位の教育機関へ進み、またあるものは実地の職業訓練を受ける。成績だけではなく、人物の身上評価を重視する。といったものであった。

 さらに鈴木少佐は、国内思想戦を提唱する。これは、学校教育の大半を軍隊教育的に行うというものである。教養のための教育は排除され、国家防衛のための一元化した教育を行っていくというものである。

 鈴木少佐は、国内思想戦の観点から、吉本興業(なんと、戦前からあった!)から国防文芸連盟、映画、演劇に至るまで指導し、講演し、執筆活動を続けていった。この時期の鈴木少佐について、戦後、数々の誹謗、中傷、罵詈雑言が出版界からわき上がった。しかしながら、佐藤氏は本書で、そのどれもが事実無根であるとしている。

 むしろ、鈴木少佐の日記からわかることは、軍部の横暴に抵抗するとしながら、実際は、出版社やマスコミや言論人は、軍部に協力していたということだ。紙の配給を軍部が管理していたため、いかに軍部に取り入るかが出版社の懸案であった。そのために、鈴木少佐は出たくもない酒席に出なければならないことの嘆きが日記に残されている。もちろん、出版社やマスコミも営利商売である以上、ある程度は軍部と癒着しなくてはならなかったであったろう。戦争協力も、本心からではなく商売上やむをえなかったこともあろう。しかし、戦後、まるで最初から自分たちは戦争に反対していたかのように回想し、戦争の悪を鈴木少佐一人にかぶせることで、自分たちは被害者であったのだとすることは、まぎれもなく欺瞞であろう。岩波書店ですら、こうだった。

 鈴木庫三は、軍人らしくない、学者のような軍人であったという。英書や独書を読み、技術的な合理主義の思考をし、カントを原書で講義できる人であった。頽廃した日本の文化を憂慮し、社会主義の台頭に危機感を感じ、自由主義を批判し、あるべき教育国家のあり方を模索した人だった。その模索の方向が軍事的であったのはやむを得ない。彼は軍人なのである。こうした人が、昭和の陸軍にいたことは僕にとって驚きであった。

 鈴木少佐が、今の平成日本の教育を見た時、なにを考えるだろうか。

毎日新聞での著者へのインタビュー記事

October 11, 2004

ジャック・デリダ亡くなる

 フランスの哲学者ジャック・デリダが亡くなった。80年代末に大学時代を送った僕にとって、ジャック・デリダという名前は、あまりにも馴染み深い名前であるが、その思想を正しく理解しているのかというと、まったく心許ない。一応、あの当時、デリダの著作を何冊か読んでわかったような気がしたが、今思うと何をどうわかったのか、さっぱり思い出せない。

 フランスの現代思想で、経済や社会を論じること(1980年代は、それが流行だった)が、果たしてどのような現実的意味を持っているのかというと、意味はないと今の僕は思う。もちろん、比較文学や哲学の分野では、現在では時代遅れになりつつあるが、ジャック・デリダについての言及が当然なくてはならないものであると思う。しかしながら、アメリカの政治思想を理解する上では、フランスの現代思想はなんの役にも立たない。もちろん、教養として知らないより、知っていた方がいい。しかし、その程度のものである。(だだし、ミシェル・フーコーは知っておくべきだとは思う。)

 僕は、今ここで「しかし、その程度のものである」と、すらっとクールに書いているが、80年代末に大学で、それなりに勉強をしていた文科系の学生だった者ならば、多かれ少なかれフランス現代思想の影響を受けたはずだ。「私は、そんなものにかぶれることなく、自分の専攻の学問をしっかりと勉強していました」という真面目な学生だった人もいるだろうけど。少なくとも、僕はかぶれた一員であった。その己の過ちを正してくれたのは、副島隆彦の本である。80年代から(それ以前からも)、良くも悪くも世界を動かし、変えてきたのは、アメリカの政治思想である。フランスの現代思想ではない。そのことが、80年代の僕にはわからなかった。

October 04, 2004

第1回大統領選ディベートを見て、ブッシュは阪神だと思った

 30日夜のフロリダでの大統領選候補者による第1回政策討論会について。その後の有権者の支持はどう変わったのか、NewsWeekの調査によると

"In the first national telephone poll using a fresh sample, NEWSWEEK found the race now statistically tied among all registered voters, 47 percent of whom say they would vote for Kerry and 45 percent for George W. Bush in a three-way race."

 とあるように、逆転してケリーがリードしている。やったあ、このまま持ち越せば、ブッシュに来年はない。共和党政権は1期で終わりなのだ。世界中の人々がこれで安心できる。

 と、思ってはいけない。NewsWeekの調査を見ると、気がかりな記述がある。

"In fact, Kerry’s numbers have improved across the board, while Bush’s vulnerabilities have become more pronounced. The senator is seen as more intelligent and well-informed (80 percent, up six points over last month, compared to Bush’s steady 59 percent); as having strong leadership skills (56 percent, also up 6 points, but still less than Bush’s 62 percent) and as someone who can be trusted to make the right calls in an international crisis (51 percent, up five points and tied with Bush). "

 ようするに、ケリーの方が知的で、状況を把握していているように見える、ということは多くの人々がそう感じている。ところが、強力なリーダーシップの能力は、ブッシュの方が上だと判断しているのだ。さらに、ブッシュは国際的な危機的状況の中で正しいことを行っていると信頼できると支持している人々が約半数いるのである。

 なぜなのか。正常な国際感覚があれば、ケリーの言っていることが正しいことはわかるだろう。なぜなのか。この、なぜなのかを考えることが、多少、大げさに言うと、今のアメリカで何が起こっているのかを理解することになると僕は考える。

 30日のディベートのビデオはC-Spanで見ることができる(Transcriptは、例えばwashingtonpost.comにある)。ブッシュという人は、ケリーと並んで壇上に立つと、なんかこー、どう見ても、人がよさそうなテキサスの牧場主のおじさんである。

 ブッシュは、まるで口頭試験を受ける学生のように緊張していた。これに対して、ケリーは悠然というか泰然自若としていた。ケリーの的確な指摘に、ブッシュはタジタジという感じであった。貫禄から言っても、どっちが合衆国大統領かわからなかった。C-Spanの映像では、大統領選挙ディベートでは、候補者がしゃべっている時、相手の候補者の様子を放送してはならないという規則に従っているが、ABC NewsのNightlineでは、ケリーが「テロ対策の目的はフセインではなく、オサマ・ビンラディンだ。」と切り出した時、オドオドし始めたブッシュの様子が映像に映っていた。

 おもしろいのは、ブッシュが司会者から「あなたの持ち時間は30秒ですよ。」と言われた時、ブッシュは緊張して"Thank you, sir."と"sir"をつけているのだ。あんた、合衆国大統領なんでしょう。どちらかというと、ケリーどころか司会者の方が貫禄が上だったとさえいえる。

 最後の方で、司会者がブッシュに「ケリー氏は、合衆国最高司令官の職に的確ですか」という質問をした時、ブッシュは笑顔で

"I admire Senator Kerry's service to our country. I admire the fact that he is a great dad. I appreciate the fact that his daughters have been so kind to my daughters in what has been a pretty hard experience for, I guess, young girls, seeing their dads out there campaigning. "

 と、なぜか娘の話題を持ち出してきて、ケリーとケリーの娘をほめた。このシーンは結構ポイントなのではないだろうか。誰もが、ブッシュはケリーを攻撃すると思っていたはずだ。このシーンを見た時、この人は、家庭的で、素朴な、いいおじさんなんだなあ、とつくづく思った。日本の総理で言うと、ブッシュは前総理の森総理のようなおじさんではないだろうか。森総理もまた独特の憎めないアジがある人だった。

 これだ!と僕は思った。これですね。この雰囲気がケリーにはない。ケリーは強いて言えば、1993年から94年の細川総理みたいなタイプであろうか。良くてスマートという感じであるが、悪くてクールな感じがする。いかにも、東部の名門の上流階級の上院議員という感じがする(細川総理も名家の出であった)。もちろん、ケリーは冷厳な人かというと、そんなことはまったくない。この人は、この人でおもしろいおじさんなのであるが、大体、大統領選挙のディベートで不必要な笑顔を見せる必要はないだろう。

 しかし、大統領選挙のディベートだろうと、なんだろうと、いつも根は「テキサスの人がいい牧場主のおじさん」で通すブッシュの姿に愛着を感じる人が多いのではないだろうか。今回のディベートで、ケリーにぴしゃりと叩かれたようなブッシュであったが、ABC NewsのWorld News Tonightで、これもまたいかにも南部の、人がよさそうな素朴な感じがするお兄さんが、「ケリーの言っている方が正しくても、僕はブッシュを支持する」と言っていたのを見て、こりゃあもう、そうなんだなと思った。

 なにが、そうなのか。ここで唐突にへんなことを言うようであるが、ようするにブッシュは阪神なんだなということである。阪神を愛するという関西の人々の心情は、東京人である僕にはわからないものがあるが理解はできる。つまり、共和党というのは阪神だったのである。(このへん、なんの論理的根拠もないけど)

 ブッシュに根強い支持があるということは、民主党が言うような、アメリカの単独行動主義や先制攻撃を良しとする政策は、国際社会でのアメリカの信用を失うとか、イラクとアルカイダは関係なかったとかいうことは、どうでもいいと思っている人々がたくさんいるということなのだ。ケリーが「国際社会の信用を得ることが必要だ」と言うのに対して、「国際社会の信用がアメリカを守ってくれるか。アメリカを守るのはアメリカだ。」と大声できっぱりと言う姿(今回のディベートの中でそう言ったわけではない)に拍手を送る心情を持った人は多い(そして、この言葉はある意味で真実であることは否定できない)。そうした心情を持つ人々にとって、ケリーのなめらかな東部のイングリッシュに対して、ブッシュの南部のイングリッシュで、時にはしどろもどろで、しかし熱意をこめてしゃべる姿に、ケリーにはない誠実さを感じるのではないだろうか。いや、ケリーに誠実さがないというわけではないが、なにに誠実さを感じるかということついて、人それぞれなのであろう。Politicsとは、logicだけではないということである。

 アメリカ人ではない人々、ヨーロッパ人とか日本人なら、アメリカのやり方は間違っていると言うことができる。しかし、アメリカの(保守的な)人々にとっては、自分たちに危害を加える可能性があるのならば、いかなるものであろうと先に軍隊を送って危険を潰すのは正しい行為なのである。他国人から見れば外交問題(ふぉーりん・あふぇあーず)であっても、当の国の人々にとっては国内問題(どめすてぃっく・いしゅー)なのである。

 NewsWeek,Oct 4で、NewsWeek国際版編集長のFareed Zakariはこう書いている。

"--because Bush is telling Americans what they believe about their country. He is telling them what they want to think about the mission in Iraq."
(なぜならば、ブッシュはアメリカ人に、彼らが自分たちの国について信じていることを語っているのである。彼は、アメリカ人がイラクで行っていることについて信じたがっていることを代弁しているのだ。)

 従って、この(保守的な)人々の認識を崩すのはたいへんむずかしい。なにしろ、自分たちが信じているものを否定するのだから。阪神ファンに、阪神ファンをやめろと言うようなものである。まず、できない。

 今の自国民が信じているものが偽りであるという真実を語る政治家こそ、本当に価値のある政治家なのであろう。しかしながら、大衆の支持を得なくては当選しないという民主主義の悪い点がそれを阻んでいる。

 さらに、9.11の衝撃は、アメリカの(保守的な)人々にとって、非アメリカ人である僕たちが考える以上に大きかったということだ。明確な戦略もなく行われたイラク戦争について考えるたびに、僕はこの戦争はアメリカの攘夷なんだなと思うようになった。9.11を日本軍の真珠湾攻撃にたとえていたが、それは間違っている。正しくは、9.11は黒船来航だったのである。尊皇攘夷は、外国を知っている者たち、例えば福沢諭吉にとってみればバカバカしいの一言であったが、そうではない(保守的な)日本人にとっては本気で切実なことだった。今のアメリカは尊皇攘夷のまっただ中なのだ。イラク戦争は、イスラムに対するアメリカの尊皇攘夷(正しくは、尊「アメリカン・ウェイ」攘「イスラム」)だったのである。

October 03, 2004

スパムコメントに遭遇する

 本日(3日)、午前9時頃、ブログを開いてみると、government grantsなる「人」より英語のコメントがついていた。そのコメントのURLをクリックして見ると、なにやらよくわからない英語のサイトにアクセスした。

 そこで、このコメントに返事を書いて、送信を押すと、先のgovernment grantsのコメントが消えてしまった。おや、これはニフティのシステムの異常かと「ココログスタッフルーム」を調べてみると、コメントの消失という現象が起きているようであることがわかる。このことが起こっているのかなと思い。自分で、government grantsの英文のコメントを(内容を覚えていたので)書いて送信をしてみた。すると、以下のメッセージが表示された。

---------------------------------------------

問題が発生しました。

Your comment has not been posted because it appears to contain questionable content. If you believe you have received this message in error, please contact the author of this weblog.

下に入力された内容を訂正してから「送信」を押してコメントしてください。

----------------------------------------------

 なにゆえ、こんな文章で"contain questionable content"なのかと思い、いろいろ違うパターンの文章を書いて「送信」をするという実験をしてみた。すると、これは文章に対してのメッセージではなく、どうも投稿者のURLに対してのメッセージであることがわかった。では、このURLのなにが問題なのか。

 というわけで、さらにネットで調べてみると、どうやらこのコメントは業者の宣伝を目的とするスパムコメントであったらしい。ぐぐって見ると、数多くのブログで被害報告が出ているようだ。この時、僕は初めてスパムコメントというのものがあることを知った。なんとまあ、アホなことをやる人も世の中にはいるものだ。

 そして、ニフティのココログは、スパム業者のURLのついたコメントはブロックする、あるいは送信された場合でも保存ができないようになっているのではないかと思う。このへん、問い合わせのメールをニフティに送ったのでいずれ判明するであろう。(であるのならば、あのメッセージはなんとかして欲しい。あんなことを言われたら、"questionable content"があるんじゃないかと思ってしまうではないか。しかし、それにしても、"questionable content"というのは、誰、あるいは、何にとっての"questionable content"なのか。political correctnessのことなのか。そもそも、表現の自由が憲法で保障されている国で、こうした警告文って問題があるような気もしないでもないけど。)

 このスパムコメントについて考えてみると、メールの場合とは異なり、なにがスパムコメントなのか明確に定義することはむずかしいだろう。そりゃま、例えば、同じコメントが大量につけられたというのならば、速攻でこれはスパムコメントだと判断し、しかるべき処理を行うことはできる。名誉を毀損するものや、個人情報が記載されているものなどもそうだろう。しかし、そうしたものではない、エントリーに対するひとつのコメントで、これは悪意あるコメントだと判断するのはむずかしいのではないかと思う。特に、政治的内容へのコメントはむずかしい。

 とは言うものの、世の中には悪意(しかない)のあるコメント、ただの宣伝目的のコメントがあることは事実であり、これらに対するなんらかの法的対策は必要であるとは思う。スパム業者のURLはブロックするというのは妥当な方法だと思う。

 今回の場合、government grantsのコメントの削除は僕が行ったのではなく、ニフティのシステムが行ったものであるということを明記しておきたい。

 government grantsさん、なにかコメントしたいことがあるのならば、自分のメールアドレスかwebのURLで投稿してください。文章は、日本語か英語でお願いします。それ以外の言葉は、辞書があっても僕は読めませんから。(フランス語を遠い昔に習ったはずであるが、試験が終わったら全部忘れた。)

 というわけで、みなさん、スパムコメントがニフティのココログにも上陸(?)したようです。ご注意ください。

October 02, 2004

姫神を惜しむ

 シンセサイザー奏者の姫神(ひめかみ、本名・星吉昭)が1日、心不全で亡くなったという

 つい、先日、渋谷のHMVで姫神のライブコンサートのDVDを見つけて、ああっDVDあったんだと思って買ってきたばかりだった。いつか、この人のライブに行ってみようと思っていた。それが永遠にできなくなってしまった。

 姫神の音楽は、同じシンセサイザー奏者の喜多郎とは全く違う。喜多郎の音楽は、どこか日本というより、アジアそのものの感じがする。日本であっても、それはアジア大陸から見た日本であり、シルクロードの終着地としての日本という感じがする。それに対して、姫神の音楽はもっと土着的な、人が大地の上で生きていて、風や森や空と深く関わっている生活の感じがする。

 姫神の音楽を最初に聴いたのは、NHKの『ぐるっと海道3万キロ』だったと思う。このテーマ曲のアルバムのタイトルが『海道』というタイトルで、海道というと黒潮、黒潮というと四国だなと勝手に思いこみ、この曲は四国をイメージした音楽なんだなと思っていた。四国と言えば弘法大師空海だなと思い、姫神の音楽は、空海の真言密教のようなスケールの大きさと、思想の多様さを感じるきらびやかな音楽だった。土着性とグローバルに突き抜けたところがある感覚は空海そのものであり、今でも、このアルバムを聞くと、僕はまだ訪れたことがない四国と弘法大師のことを思う。

 ところが、この人は四国ではなく、東北をベースにした音楽作りをしている人なのだということを後で知った。東北と言えば、宮沢賢治を代表として、数々の作家、詩人、画家、演劇人などが出たところではないか。姫神は、東北のイメージや歴史や民話や伝承などを元に音楽を創っている人だった。

 それを知った頃、NHK大河ドラマで『炎立つ』をやっていた。『炎立つ』は、歴代大河ドラマの中で異色の作品だったと思う。奥州での11世紀の「前九年の役」と「後三年の役」を題材とするこの作品は、渡辺謙が平泉の藤原氏の祖である藤原経清と最後の藤原泰衡を演じていて、これがよかった。渡辺謙、こういう役はハマリまくり。村上弘明の藤原清衡も、渡瀬恒彦の藤原秀衡も合っていた。佐藤慶の源頼義も、佐藤浩市の源義家もよかった。豊川悦司の家衡もいい、長塚京三の頼朝もよかった。というキャストと内容がいいと、なんでもよくなるの見本みたいな大河ドラマであった。惜しむらくは、この番組は半年しかやらなかったということだ。この年の大河ドラマは、年間で2本立てであった。これはNHKの愚挙であったと言えるだろう。この毎回のドラマの最後で、「炎紀行」というミニ紀行番組があって、そのテーマ曲が姫神だった。これが最高に合っていた。都のヤマト王朝に滅ぼされた東北の蝦夷たちへの鎮魂と祈りの音楽だった。

 その後の姫神の音楽は、東北のイメージだけに留まらず、ワールドワイドに音楽を展開していった。インストメンタルな曲だけではなく、積極的にボーカルを取り入れて、Deep Forestのようなエスニック的なニューエイジ・ミュージックやアンビエント曲に変わっていった。

 それらもまたいいのだが、僕の一番好きなアルバムは、なにかといえば『東日流』(つがる)を挙げたい。このアルバムは青森県市浦村十三湖の追想アルバムで、十三湊(とさみなと)と呼ばれるこの場所で、1990年代の初めに、500年前の、当時、東アジア交易で栄えていた伝説の港湾都市の跡が発掘されたのだ。これは、東北の歴史を根本的に覆す出来事だった。かつて津軽は、海外貿易で栄えていた有数の国際都市だったのである。

 この十三湊の発見は、晩年の司馬遼太郎の北方志向にも大きな影響を与えた。亡くなる前の司馬さんは、東北と北海道を「北のまほろば」と捉えていた。稲作文化の西日本とは別種の独自の文化体系があったとし、そこから東アジア史と倭人と総称された日本民族の姿を見直そうとしていた。北国のマタギや少数民族の自然観に、行き詰まった近代の価値観を超えるものを見出そうとしていた。

 東北には、いくら語っても語りつくせない奥の深いものがある。その東北から世界に向かって音楽を発信していた姫神は、東北の心そのものだった。遺作となるのだろう最後のアルバム『風の伝説』には、民話やブルガリアン・ヴォイスとコラボレートした曲がある。シンセサイザーという音楽のテクノロジーを使い続けてきた姫神が、最後にたどり着いたものは人の声だった。

 姫神は、たくさんのいい曲を残してくれた。姫神の音楽を聴くたびに、僕たちは、この世の中で本当の価値があるものはなんであるのかを知ることができる。星さん、ありがとうございました。

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