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September 19, 2004

「虫愛づる姫君」を想う

 平安時代の物語集である『堤中納言物語』に「虫愛づる姫君」という短編物語がある。身なりもかまわず虫に熱中する姫君の話である。昨今、女性の晩婚化、少子化が大きな問題とされているが、そうした話題を読むたびに、僕は「虫愛づる姫君」のことを考える。「虫愛づる姫君」こそ、日本文学に最初に現れた「結婚しない女性」であった。

 この話、まず出だしがおもしろい。
「蝶めづる姫君のすみ給ふかたはらに、あぜちの大納言の御むすめ、」
(蝶が好きな姫のお隣にその姫君は住んでいました。)

 つまり、蝶が好きな美人の姫の隣に、我が愛すべき虫愛づる姫君が住んでいましたという書き出しなのだ。なんとなくこの出だしだけでも、蝶が好きな美人の姫の方は酒井順子が言うところの「勝ち犬」になる姫であるかような予感がしてしまう書き出しではないか。

 虫愛づる姫君はこう語る。
「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人はまことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ。」
(人々が花や蝶を愛でることこそおかしい。人間には誠実な心がある。物の本質を追求していくのが、いかにも心に趣がある。)

 「本地」とは仏教用語で、この場合、花や蝶とは本質が化現した仮の姿であって、そうしたものを見て楽しんでいるだけではダメで、物の本質を考えなくてはならないのよと言っている。この言葉からも、この姫君はただの虫好きという変わった趣味の女の子ではないことがわかる。

 さらにこう書く。
「人はすべて、つくろふところあるはわろし」とて、眉さらにぬき給わず、歯黒め、さらにうるさし、きたなしとて、つけ給わず。いと白らかに笑みつつ、この虫どもを朝夕に愛し給ふ。」
(「自らを飾り装うのは間違っています」と言って、眉はお抜きにならず、お歯黒も煩わしい、汚いといって、さっぱりおつけにならず、白い歯をあらわにして笑いながら、これらの虫どもを、毎日毎日かわいがっていらっしゃる。)

 この時代の女性は、13から14歳になると眉毛を抜いて、お歯黒をぬって真黒な歯にするのが社会慣習であった。ところが虫愛づる姫君は、人間はそのままで十分に美しいのだと主張し、化粧なんてものをせず、ましてや歯を黒くぬるなどということは「うるさし、きたなし」といってきっぱりとやらない。白い歯で笑いながら、今日も元気に野山で虫を追いかけるのである。

 こうした姫君を不気味に思う(現代の感覚では、お歯黒をしている方がなんとなく不気味だけど)侍女たちが姫君の部屋からとうとう逃げ出すと、
「かくおづる人をば、「けしからず、はうぞくなり」とて、いと眉黒にてなむにらみ給ひけるに、いとど心地なむまどける。」
(「なんて失礼な人、みっともない」と姫君が(眉毛を抜いていないので)黒い眉をキッとさせてにらみつけるものだから、侍女たちはほとほとイヤになるのであった。)

 なんか、姫君が「けしからず」と言ってキッとにらみつける姿がまるで目に浮かぶではないか。あんた、それだけでもう「負け犬」の人生決定だよという声が聞こえてきそうである。しかし、この娘はそんな声を気にすることはまったくなく、ゴーイング・マイウェイ、我が虫ラブの道(?)を誰に恥じることなく堂々と歩むのである。

 いつの世も、こうした娘をもってしまった親は困り果てるらしい。虫愛づる姫君の父親も、この娘にはほとほと手を焼いていた。
「さはありとても、音聞きあやしや。人は、みめをかしきことをこそこのむなれ。むくつけげなるかは虫を興ずるなると、世の人の聞かむも、いとあやし。」
現代語訳しなくても、このお父さんの言っていることはわかりますね。まっとうな大人の意見です。

 ところが姫君は、これに真っ向から反論する。
「くるしからず。よろづのことどもをたづねて、末をみればこそ、ことはゆえあれ。いとをさなきことなり。かの虫は蝶とはなるなり。」
(全然、気にしないわ。この世の森羅万象は初めから終わりまでを見て初めて理解できます。毛虫を見ないで蝶しか見ないというのは子供のやることです。毛虫が蝶になるのをご存じないの。)
さすがに、これには親もこれ以上言う気力を失うのであった。

 虫愛づる姫君は、理知的な女性だった。同じく知的な才女だった紫式部や清少納言が、男女の哀感や人の世の様々な出来事にその興味と関心を向けたのに対して、この子はそうした人間と人間が織りなす世の物事よりも、人がいない自然の中の生き物に関心を向けた。この時代、当然のことながら人類はサイエンスという知的ツールを持っていない。この時代は、自然の万象を通して普遍の真理を探究していくのに密教や陰陽道があったが、虫愛づる姫君はそうした怪しげな宗教にハマることなく、あくまでも論理的に自然を観察する人であった。このへん、この時代から遙かな後年のアンリ・ファーブルかモーリス・メーテルリンクか、あるいはもっと時代が下ってレイチェル・カーソンのような子だった。

 『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」は、これ以後、右馬佐という公卿の男の子とのラブコメ的ストーリィ展開になっていくのだが、どこまでもロジカルな姫君がおもしろい。この姫君は間違っても癒し系ではなく、いわば論理系(あるのか、そんなもん)なのだけど、ちょっと天然ボケなところもあって、それがまた楽しい。


 フランス人女性ジャーナリストのアンリ・ガルグが、バブル以後の日本の女性たちにインタビューを行い、現代の日本の女性の意識と行動の変化を紹介している。アンリ・ガルグ著『自分らしさとわがままの境で』草思社(2002) この本は、フランス人が書いてフランス人読者を対象としたフランスの本である。それが翻訳されて、こうして日本人が読むことができる。これらのインタビューも、フランスで出版する本のためということで相手にしゃべってもらったのだと思う。だから、日本のメディアではなかなか聞くことができない(扱わない?)現代日本の女性たちのホンネトークが語られている。

 欧米のメディアによくある日本文化論は、日本のオタクやアニメ文化を扱ったものか、ヤクザものか、女子高生の援助交際などいったアンダーグランドものが多い(結局、サムライ、ゲイシャという日本観は今でも変わっていない)が、この本はそうしたものがまったくなく、淡々と日本女性が今置かれている社会的な場所や、彼女たちの不満はなにに起因するのかといったことを客観的に論じていると思う。

 この本の末尾の解説にあるように、この本に登場する女性たちは、どうしても著者の人脈が反映してしまい、インタビューに答える女性の多くは高学歴でキャリアのある仕事を目指すタイプであり、そして東京に暮らす女性が多いということは言えるだろう。もちろん、日本女性のすべてがこうした女性たちであるわけではない。しかし、解説にもあるように、自分もまた高等教育を受け、働く女性であるアンリ・ガルグさんの日本女性論として読むことができる。

 この本を読んで僕が思ったことは、以下の通りだ。
 つまり、世の人々は女性が結婚をしない、子供を産まないことを問題としているが、それらはおおざっぱに言うと、第一は今の日本社会の制度や企業システムの問題であり、第二は男性側の意識の問題であるということだ。そもそも、企業は(就職したのならば)24時間全部が会社の仕事と仕事のための生活になるのは当然であるという考え方に基づいて制度なり労務管理なりができている以上、女性が働きながら子供を育てるということは不可能に近いことは当然であろう。家事をするのは女性の役割という昔の価値観を今だに持った男性が、子育てを妻だけに任せるのも問題であるが。仮に男性が子育てに協力したいと思ったとしても、なかなかそうできない企業や社会の仕組みがある。まず、ここを変えない限り、晩婚化、少子化は改善できない。つまり、晩婚化、少子化を女性問題なのだと考えることが間違いであって、社会や企業の制度やマネジメントの問題だと捉えるべきだったのだ。

 アンリ・ガルグの本は、日本の男性はもっと女性を信じなさいということを言っているのだと思う。企業や社会の仕組みを改善し、かつ男性の理解があれば、女性たちはもっと積極的に職場での責任を果たそうとするし、家庭や子育てもしっかりとやろうとする。その意欲と能力を、今の日本女性たちは十分に持っているとこの本は主張する。

 ただし、先にも書いたように、この本に出てくる女性たちは、自分の考えを論理的に表現ができて、社会的責任を引き受ける意識と自覚をもった人が多い。しかし、こうした女性は日本では数が少ないのは事実だと思う。アメリカでよく見かける若い日本の女の子たちを見ていると、この子たちはなにゆえ外国に来たのか理解できないことがあることも少なくない。(それを言うと男性も同じなのだが。)

 (なぜ、日本ではそうなのか。それはこの国の男性はあまり理屈を言う女を敬遠する傾向があるからじゃないか。でも、それって女の側も媚びてくる男性しか受け容れようとしないということもあるじゃあないかetc etcという議論があると思うがここでは触れない。)

 しかしながら、フランス人であるアンリ・ガルグの本を読んで僕が思ったことは、そうした制度やシステムや産業構造の現状の姿が実は問題なのではなく、問題なのは女性や男性に関わらず、そもそも日本社会で「個であること」ということはどういうことなのかなんだなと思った。

 男の場合は、その生涯において、アイデンティティは基本的には生まれた時のまんまというか、むしろその人が属する(学校や企業という)組織のアイデンティティが自己のアイデンティティになっている。これに対して、女性の場合は、誰々という親の娘であることから始まり、結婚しては誰々さんの奥さんであり、子供ができると誰々ちゃんのお母さん、さらに時がたって孫ができると、誰々ちゃんのおばあちゃん、というように社会的アイデンティティが変わっていく。このことにより、自分個人のアイデンティティを保つことが困難になっているのではないかと思う。

 結婚や子育てということについて言えば、結婚や子育てそのものが問題なのではなく、結婚して、誰々さんの奥さんになって、子供ができたとしても、なおかつ自分は自分であるという自分のアイデンティティを心のどこかに保ち得るのかということが問題なのではないかと思う。だからこそ、ものを考える日本女性たちは、結婚や出産の前で立ち止まるのではないか。

 なぜならば、この一点において、欧米と日本では本質的な違いがあるからだ。この国は、人間とは根本的には個なのだということを当然のこととして根底に置いている社会ではなく、「個であること」を絶えず意識していないと、いつのまにか曖昧と集団に埋没してしまう社会なのである。今の30代の女性が惹かれるという向田邦子、須賀敦子、宇野千代、白州正子らに共通するものはそこだと思う。彼女たちは、結婚しようが、しまいが、子供があろうが、なかろうが、「個であり」続けた。(その意味で「生きて行く私」って、なんていいタイトルなんだろう。)この人たちは、独身である、あるいは妻である、あるいは母であっても、と同時に「個である自分」を持ち続けた。歳を取るということがただ歳を重ねていくことではなく、個である自分を高め、深めていく生涯を送った人たちであった。

 だから、立ち止まって考える彼女たちに向かって、「やっぱり、女の幸福は家庭を持つことよ」とか「子供を持ってみるものいいわよ」とか「愛することが大切なのよ」とか言うことはあまり意味がない(というわけでもないが、ポイントがズレている)と思う。そんなことは、彼女たちは表面は「そうですよね。ご意見、感謝します」と微笑むであろうが、内心では「くるしからず」「うるさし」キッ、なのだ。むしろ、仕事を持ち、家庭を持ち、子供ができても、「個である」ことはどういうことなのかが重要なのだと思う。でも、これって、若い女性に限らず男性も同じなんだよなあ。


 暑かった夏もようやく終わり。本格的な秋の気配がもうそこまできている。夜半に窓を開けていると、どこからか虫の声が聞こえてくる。その声に耳を傾けながら、遠い昔の平安の世の虫愛づる姫君のことを想う。あの子は、その後、どのような人生を送ったのだろうか。あのままずっと、虫愛づる姫君のままの生涯を送ったのだろうか。それとも、右馬佐か誰か貴族の妻になり(当時は通い婚だったけど)、子供に恵まれた生涯を送ったのだろうか。でも、どんな生涯だったにせよ、あの子のことだから、虫を愛づることを生涯続けたのではないかと思う。きっと、幸福な一生を送ったんだと思う。

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Comments

真魚さん、この記事への感想の第一声は「とーっても面白かった!」です。平安文学って現代の女性にとって最もピンと来る文学かもしれませんね。

>女性の場合は、誰々という親の娘であることから始まり、結婚しては誰々さんの奥さんであり、子供ができると誰々ちゃんのお母さん、さらに時がたって孫ができると、誰々ちゃんのおばあちゃん、というように社会的アイデンティティが変わっていく。このことにより、自分個人のアイデンティティを保つことが困難になっているのではないかと思う。<

この部分、まさしくドンピシャ、だと思います。言い方を変えれば、本来、人間って男女を問わず自己実現を望むものなんだと思いますが、他人を通じて自己実現することでは結局納得出来ないんだ、それを知ってしまったのが現代女性なんではないかと思います。ただ一つだけ、

>ところが虫愛づる姫君は、人間はそのままで十分に美しいのだと主張し、化粧なんてものをせず、ましてや歯を黒くぬるなどということは「うるさし、きたなし」といってきっぱりとやらない。白い歯で笑いながら、今日も元気に野山で虫を追いかけるのである。<

多くの女性はここまでは割り切れない、やはり、女性としての美しさや既存の幸せや愛と言う物を完全には割り切ることは出来ないからこそ苦しんでいる、その辺りも察して欲しいなと思いました。

それにしても真魚さんて、教養人ですねえ…私、古文は好きなんですが、いかんせん、現代語訳じゃないと理解できないんです。

>>他人を通じて自己実現することでは結局納得出来ないんだ、<<

というのは意味が深いですね。「個であること」で自己実現をしていく。そして、これって「愛」とは別のものなんですよね。「愛」が大切というのはよくわかるし、むしろ当然なんですけど、「自己実現」とはちょっと違うんですよね。「愛」って「自己実現」の一部なんだとでも言った方がいいのかもしれません。「自己実現」の大切な、かけがいのない、必要条件なんだと思います。

>>その辺りも察して欲しいなと思いました。<<

あっ、そうでした。「自分らしさとわがままの境で」の方で、そうした今の女性のみなさんの当然の主張を知るべきだとしているのですが。虫愛づる姫君のこの部分は、ちょっと、今の時代の感覚では、虫愛づる姫君のこうした姿の方が美しいので、無意識でこれがいいんだと思っちゃいました。いけませんね、歴史的文章を今の時代の感覚で解釈するのは。

古文は僕も読めません。外国語ですね、これは。話自体の内容は知っていましたが、こうやって文章に書くので一応原文を載せようと思ったのですが、持っていたのが岩波文庫で、しかもこれは現代語訳の全文がついていないので苦労しました。なんつーか、岩波文庫版は高校生の古文のお勉強用です。お勧めできませんね。

長文なのに読みやすい。面白い。真魚さんの文章はお見事です。

だいたいの内容は知っているつもりでいたけれど、「虫めずる姫君」が、こんなに面白く深い意味のある物語とは知りませんでした。
平安時代にこれほどの思考経路でものを書く人がいたとは驚きです。こういう物語は珍しいのですか。それとも、この手の古典って沢山あるんでしょうか。

>>他人を通じて自己実現することでは結局納得出来ないんだ、<<

この感覚をkakuさんと真魚さんが共有なさっているのに、たとえば56歳のこの私には、ピンと来ません。
世代間のギャップ(時代感覚の刷り込みの違い)なのか個々人の違いなのか・・・・。

私は「自己実現」の意味すらよくわからず、「アイデンティティの確立」とはいったい何ぞやと思うので、これはもういわゆる「なんとかの壁」と言ってもいいんでしょうね。

近頃の中年女性の「自分探し」や「自己実現」の探求は、若い世代に啓発されてようやく気づいた(あるいは口に出せるようになった)ものなのかな。

たぶん私は「知らぬことの幸せ」にどっぷり浸かっているのだと思います。
おふたりのコメントを読んでしみじみ思ったことです。

robitaさん、

実は、正直に告白しますと、もともと、この文章はrobitaさんのブログの9/15のようするに子供への愛情が一番大切なのだという文章への僕なりの反論の文章なんです(変わったスタイルの反論ですけど)(^_^;)。でも、これを書いてrobitaさんにトラックバックするのもなにかなあと思って、そのままになってしまいました。ううっ、robitaさんには隠しごとができません。

ということはさておき。

古典にはそれほど詳しくないのですが、王朝物語で言うと、この「虫愛づる姫君」がある『堤中納言物語』はどれもおもしろい話だと思いますし、中世文学まで範囲を広げれば、女性の生き方について考えることができる作品は当然のことながら数多くあります。

だた、この「虫愛づる姫君」ような話は希だと思います。そもそも、当時の感覚で言えば、あまりにも姫君らしくない姫君を主人公にもってくることで「おもしろい話」だったので。それほど他に類似の物語があるとは思えませんし、実際にないようです。ところが、現代では、あまりにもありうる話ということで「おもしろい話」になっています。平安時代の作者(ただし、いつの時代の作なのかはまだ定説はありません)も、まさか千年後にこの国がこうなるとは思ってもいなかったと思います。

実際のところ、酒井順子さんが『負け犬の遠吠え』の中で使ってもおかしくない題材なのですが、使ってはいなかった。この「虫愛づる姫君」は、男性のアニメファンの間では、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の原作のひとつとして知名度はあるんですよ。それで、僕もパッと、これは使えると。

でも、こうやって書いてみて、みなさんとの会話を通して、この話は思った以上に奥が深いと思っています。これ、本当、もう、もっといろいろなことを考えることができる物語なんですね。

「他人を通じて自己実現することでは結局納得出来ないんだ」は、僕はこの気持ちがよくわかるんです。うーん、robitaさんにはわかりませんか。自己実現とはなんぞや。確かにそうですよねえ。自己実現という、その「自己」ってなにかというと、うーん、そうですねえ。これ中島みゆきが言っていた「あたしはあたし」という感覚とも違うと思います。今の子で中島みゆきを聴いているのは少ないでしょうし。

この「他人を通じて自己実現することでは結局納得出来ないんだ」は、別にだから他人なんかいらない、家族はいらない、子供はいらないと言っている意味じゃあないんです。そうしたものは当然必要だし、大切なものなんだと心から思います。robitaさんの言われる子供への愛も必要なんだと思います。

しかし、それだけではなくて、それらがありつつ、かつ、それらではない(他人を通じない)「わたし」というものがあって、その「わたし」が納得できなくては、納得ができないとでも言いましょうか。

じゃあ、その(他人を通じない)「わたし」ってなんですか。そこまでこだわる、汝の「個」とはいかなるものなりや、と言われると、うーむ、なんなんでしょうねと僕も言わざる得ないのですが。うーん、なんなんだろう。

えーと、私メの「他人を通じて自己実現することでは結局納得出来ないんだ」発言が話題になっていますので少しコメントさせていただきますね。

これはそんなに難しく考える事ではないと思います。人間は誰しも「私」として自己表現したいものではないでしょうか。例えばrobitaさん、流行モンのblogを素早く作成して、ご自分の意見を発信する場を確保されていらっしゃる。

つまり、誰かを通して「私」の考えを発信するのではなく、自分なりの経験を通じて作られた今の「私」として、社会に・他人に何かを伝えたい・表現したい、そして存在したい、そういう気持ちに基づいて行動することを自己実現、と言いました。

そんな訳で、robitaさんの仰る、「たぶん私は『知らぬことの幸せ』にどっぷり浸かっている」と言うのはあまり関係ありません。この気持ちに気づいているからと言って不幸で悩みが多いとは限りませんから。

昨今のヨン様ブームを見て、私は所謂他人を「追っかけ」出来る人と言うのはイノセントな人たちだなあ、と羨ましくなる一方で、その実、自分の思いを一方的に託す対象を探すのは、きっと永遠に自己が満たされない状態なのだろうな、とちょっと寂しくもなります。

以前、とうに還暦を過ぎた女性が、自分の息子よりも若い男性に熱を上げて周りの全てが見えなくなっている時に「私たちの世代が味わってきた苦労は恵まれたあなた方には分からないでしょうね、でも、あなたも私の年齢になれば分かるかもしれないわね」と言われたことがあり、それ以来、女の一生って何だろうな、とずっと考えてきた私なりのコメントでした。

>じゃあ、その(他人を通じない)「わたし」ってなんですか。そこまでこだわる、汝の「個」とはいかなるものなりや、と言われると、うーむ、なんなんでしょうねと僕も言わざる得ないのですが。うーん、なんなんだろう。<

あははは。こういう文が書ける真魚さんの感覚が人をホッとさせます。

kakuさん、
 >これはそんなに難しく考える事ではないと思います。<

私の言ってることもすごく簡単なんです。
要するに、「私は○○の妻、○○ちゃんのお母さん、○○ちゃんのおばあちゃんでちっともかまわない。」ということです。

また、
 >昨今のヨン様ブームを見て、私は所謂他人を「追っかけ」出来る人と言うのはイノセントな人たちだなあ、と羨ましくなる一方で、その実、自分の思いを一方的に託す対象を探すのは、きっと永遠に自己が満たされない状態なのだろうな<

この中年女性たちと私とは同じなんです。
彼女たちは、きっと、私と同じように「夫や子どもを通しての自分」という立場に甘んじていて、家庭的にある程度満足している人たちではないのかな、と思います。そのイノセントぶりはまるで私です。

興味の対象が人それぞれ違うというだけなのだと思いますよ。

「自分探し」であがいている女性というのは、もっと真剣で、深刻で、どろどろしているのではないかとこのごろ思うようになったので、【「自己実現」を追求する女性のもがきを思えば、シンプル且つイノセントでいることのなんと幸せなことよ】という考えに至りました。

しかし、こういう「B型人間」の言い分は、社会がかくも複雑な仕組みになってきたことを考えると、いかにも「ずるい逃げ」というより他ありません。

じゃあ、私はいったいどうしたらいいんでしょう。なにかしなくていいのか。せめて、主張する女性の足を引っ張るような言動は控えるべきや否や、うーん、「私」とはいったいなんぞや。

・・・・・真魚さんと同じ迷路に迷い込んでしまった。


>この中年女性たちと私とは同じなんです。<

うーん、robitaさんご本人がそうだと言っているのに、私がどうこう言える筋合いじゃないんですが、他人から客観的に見ると、それはやはり「違う」と言わざるを得ないです。あくまで私の勝手な想像ですが、今はヨン様ちょっと前は純ちゃん…みたいな追っかけに時間を費やしている方々とrobitaさん、一緒の場所にいてもそんなに深い友情が芽生えるとは思えませぬぞ。だってrobitaさん、ゼッタイ「硬派」だもん。

うまく言えないんだけど…昨今流行語になっている「負け犬」、これ、酒井氏本人から自発的に出た言葉であることに注目すべきだと私は思っています。

他人から見たら「負け犬」でも、本人的にはそうでもないのよ、そこが本音だと思います。つまり、「幸せな家庭」があろうとなかろうとそんなことはあんまり関係なくて、自分がその状態にある程度満足出来ているか否か、が問題なんです。で、その「満足」には「私としての責任」が必要不可欠なんではないでしょうか。

何かや誰かを通して「私」が形作られて行くのと、何かや誰かと自分を同一視した「私」とでは大違いです。

何かや誰かに自分を同一視すると言うのは余程の修行者で無い限り、永遠に自分が満足することはない様に思います。他人と自分を同一視するとは、他人(もしくは自分以外の何か)に自分の欲望の体現を期待する、と言う事とほぼ同義であり、結局、その一方的に期待された何かは「私」じゃないのですから。

ああ、何だか意味不明。誰か翻訳して下さったら嬉しいな…

kakuさん、

うーん、(なぜか、この話題は、最初に「うーん」と思わず言いたくなる)robitaさんはきっとですね、「あるがままでいいんですよ」と言われているんだと思います。「あるがまま」でrobitaさんなんです、robitaさんは。

で、思うのが仏教でよく聞く話で、ある日、ブッダのお弟子さんが、ブッダに「不安な心を落ち着かせてください」と言うと、ブッダは「では、おまえのその不安な心というものをここへもってきなさい」と言います。すると、お弟子さんは一生懸命考えて、「不安な心をつかまえることなんかできません」と言う。するとブッダは「捉えられないのが心なんだよ」と答えます。つまり、心は実体としてあるわけじゃないんだ、自分で自分の心を落ち着かせるしかないんだということを、お弟子さんは自分で気がつくんです。(この「自分で気がつく」というのが重要です。)

そこで、この話を多少アレンジしてみると、こうなります。
ある日、お寺の小僧さんの真魚が、robita師にこう尋ねます。
「個としての自分のアイデンティティが必要なんです。どうしたら自分を発見できるでしょうか」
すると、robita師はこう言います。
「またまた、そーゆーさかしらなことを。では、その自分というものを、ここにもってきなさい。」
そこで、小僧の真魚は「自分」を探すのですが見つかりません。真魚は言います。
「自分を見つけることなんてできませんよお。」
すると、robita師はこう言います。
「自分はどこかにあるものじゃあありませんよ。あなたは、あるがままで自分なんですよ」と。

つまり、「自分探し」をしているようでは、自分は永遠にわからないですよと言われているんです。あるがままでいながら、他の人とは違う「差異」がおのずから現れるというのが、本当の個性なんですよと言われているのだと思います。だから、robitaさんは、「私は○○の妻、○○ちゃんのお母さん、○○ちゃんのおばあちゃんでちっともかまわない。」んです。なぜならば、robitaさんはrobitaさんなんですから。(うー、禅問答ですね)(@_@)

だから、robitaさんとしては、ヨン様追っかけの中年女性たちと、ご自身は「同じ」だと思われているんです。追っかけのみなさんも「あるがまま」なのですから。しかし、robitaさんの「あるがまま」と、追っかけのみなさんの「あるがまま」には他者(社会)から見ると違いがあって、そこにrobitaさんの「個」があるだと思います。ここの部分をちょっとムズカシく言いますと、「個」や「個性」というのは、つまり、実体概念としてあるのではなく、対人間関係、対社会関係の中で成立しているものなんです。長い間の「対人間関係」「対社会関係」の体験を持っている人は、このことがわかっているんです。

しかしながら、そうした体験を持っていないワカイモンは、実体的な(虚構の)「自己」を論理で構築していこうとする(というか、それしか方法がない)から「自分探し」になってしまうのではないかと思います。

ただし、体験がないモンに「おまえには(体験がないから)わからない」と言っても、何の説明にもならないというか、「世の中には、体験しなくてはわからないことがある」ということがわかるだけで、実際、体験のないモンはどうせよと言うのだ、ということになるんじゃあないかと僕は思います。いえ、robitaさんがそう言われているという意味ではなくで、あくまでも一般論の話です。(オド、オド)

むしろ、酒井順子が「負け犬の遠吠え」の最後に書いたように「負け犬本人にとっては知ったことではないのです。負け犬の皆さんには、これからも躊躇などせず、走って、走って、走って、どこまでも走り抜けてほしいものだ」と僕も思います。そして、10年後か20年後に、ワカイモンに「あるがままでいいのですよ」と言えるようになりましょう。(^_^)

真魚さん、

たくさんご教示して下さってありがとうございます…うーん、“あるがまま”ですか。私、そんじょそこらのご老人より(禅)仏教的価値および思考が嫌でも身についている環境で育ちまして…“あるがまま”ってのは、悟りの境地を指しますんですよね。

“あるがまま”と“イノセント”は違いますね。“あるがまま”は「己とはなんぞや」と言う自他問答の苦行の果てにしかたどり着けないモノでして、逆に言えば自分でも正体の分からぬ「我」の膨張を抑える為に仏の教えはあるんであって…それを抑えるには「我」を知り「我」を確立するしか術が無い、それ即ち座禅に頼ることなんでしょう、道元禅師に拠れば。多分、すべての宗教は元来、これと同じ事を目指したんではないかと思いますが。ちなみに多くの宗教者は、体験の無いワカイモンの時にこれらの事に気づいたんであります。

うーん、でも、ま、そのうち3人で座禅でもしましょうよ、一汁三菜のランチしながら…なんちて。

kakuさん、

うーん(また、うーん、なのですが)、kakuさんのストイックな自己追求は正しいです。

ただ、kakuさんが言われる「“あるがまま”は「己とはなんぞや」と言う自他問答の苦行の果てにしかたどり着けないモノ」「それ即ち座禅に頼ること」というのは道元の只管打座というか、曹洞宗的というか、永平寺的な仏教解釈だと思うんです。

「我」を知り「我」を確立する道というのはそれだけではないと思うんです。例えば、天台密教や真言宗では座るだけでなくて、身体を動かすこと(回峰行のように山野を歩き回る)と真言を唱えることも必要(これを「三密」といいます)とされています。

真言宗では、「即身」という考え方があります。例えば、テニスでサーブがパコーンと決まった時とか、プールでクロールで泳いでいる時とかって、「我」なんて意識していませんよね。でも、「我」が身体を動かしている。「我」ってなあにというと、身体全体そのものが「我」になっています。これだって「我」なんだと思います。「即身」というのは、実際はもうちょっと広い意味ですけど。

で、この観点から道元を考えると、道元の言う「心身脱落」というのは、「座る」という身体的な「動き」もしくは「かたち」を通して「即身」に至ることなんじゃないかと。(こういうことを言うと、道元禅師はそんな密教のチャラチャラした意味で言ったんじゃあありません。「心身脱落」というのは、厳しい自己修練の果てにつかみ得るものですと曹洞宗の人から怒られるでしょうけど。)

もちろん、イノセントにただ漫然としているだけではイケナイというのはよくわかります。まー、これも同じ禅宗でも良寛さんなら、「“あるがまま”と“イノセント”は同じなんだよ」と言いながら、童たちと鞠をつくかもしませんが。ダメです、ダメです、ストイックにキリッといきましょう。

あー、なんかすごい会話になっちゃいましたね。
一汁三菜のランチ、いいですね。最近、僕はダイエットをしていまして、もっかリバ ウンドの誘惑との戦いが辛いんですううう。

うーん、(あっ、やっぱり言ってしまった)半分わかったようなわからないような・・・・。いえ、思い切って正直に申しましょう。さっぱりわかりませぬ。
真魚さんもお人が悪い。真魚師の前で頭に?マークつけたrobita小僧がかしこまってる図なら簡単に思い浮かびますものを。
これから何日もかけて、真魚さんとkakuさんのやりとりを少しずつ読み解いていきますだ。

真魚さん、
真言宗って弘法大師=空海が開祖でしたっけ。空海って物凄い天才だったらしいですね…真言の教えはあんまり知りません、いつか機会があったら是非、記事で取り上げてくださーい。

良寛さんと言えば、「つきてみよひふみよいむなやここのとを とをとおさめてまたはじまるを」ですね。確か『蓮の愛』とか言う本を読んだことがあります。あと、新潟の寺泊の記念館へも行ったことがあるな…いずれにしても幸せなお人です、ハイ。


robitaさん、
私メの御託なんぞ紐解かなくてOKです、ホントに言いたいことは「高給取りだろうと専業主婦だろうと職業婦人だろうと、自分の言葉で語れる人は語れるし、語れぬ人は語れない。そして語れぬ者はいつも自分以外の何かに期待している」と。それで、robitaさんはご本人の自己評価は何でアレ、間違いなく「語る人」である!ハイ、終わりっ。

皆さん、この続きはいつか、一汁三菜ランチで必ず!ね。

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