北岡伸一著『清沢洌』を読みました
北岡伸一著『清沢洌』中公新書(2004)を読んだ。以前、この本を探したことがあったが、その時は絶版で入手できなかった。ところが、最近、補増版として再出版された。
清沢洌は、戦前の外交評論家である。戦前では、国際問題を論じる知識人はほとんどみな高等学校から帝国大学に学び、欧米に留学する経歴を持つが、清沢はその中でまったくの異色の経歴を持つ。小学校を出た後、中学校へ行くことが親の許可を得られず、近所の無教会派キリスト教の私学のような塾へ通う。ここで3年学び、日露戦争が終わった翌年の明治39年に16歳で単身でアメリカへ移民として渡る。シアトルで様々な仕事につきながらハイスクールで学び、カレッジで学んだ。しかし、仕事との両立のためか正式な卒業はしていない。やがて、現地の日系人社会の新聞の記者となり、ジャーナリストとしての人生を歩むことになる。大正9年、1920年に日本に帰国し、中外商業新報(現在の日本経済新聞社)の記者として記事を書くようになる。やがて東京朝日新聞に移り、さらに報知新聞の論説委員になり、そしてフリーの外交評論家になる。以後、さかんな評論活動を行い、「中央公論」や「改造」に時の政治家や政府の外交政策を批評する文章を積極的に書く。昭和16年、内閣情報局より総合誌での評論掲載禁止になる。そのため明治の外交史の研究に取りかかる。昭和20年、終戦の3ヶ月前に55歳で肺炎で亡くなる。
この人は、当時の日本人では桁違いに優れた国際情勢の分析力を持っていた。今の時代の観点から見ても、この人ほど正確な日米関係を論じていた人は他にいなかったと断言できる。それほど優れた外交評論家であった。今の時代で言えば、大前研一のような日本人離れした論理と国際感覚の人であった。他の人と何が違うのかというと、清沢は帝大出で政府や満鉄調査部といった大企業に務めたエリートではなく、帝大の教授でもない、アメリカ移民としてアメリカで苦労して勉学を学び、アメリカ社会で働いてきた経験から自分の世界観を構築していったということであろう。従って、国家とか企業とか大学とかいった枠から離れて、一個人として、民衆の一人として国際社会を考えることができたのだと思う。
この本を読むと、清沢の評論を通して、日米開戦を避けることが政策的に可能であったことがわかる。つまり、外交の手段によって戦争を避けることは可能であったということだ。と同時に、実際の歴史はそうはならなかった。つまり、外交で避けることができたにも関わらず、結局戦争になってしまったのはなぜなのだろうかということだ。個人ひとりがどんなに卓越した見識を持っていても、時代や社会は変わらないということなのだろう。
清沢はアメリカを論じながら、同時に日本を論じていたのだと思う。清沢が論じていた様々な日本の問題は今なお問題のままになっている。そして、1945年の太平洋戦争の終結から、21世紀の今、清沢が見続けてきたアメリカは大きく変わった。しかし、清沢のアメリカへの見方、考え方は今後ますます必要とされるであろう。自分もまた、清沢洌という人が、戦前のあの時代にいたということを心の励みとしたい。
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