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August 2004

August 30, 2004

スタートレック・ボイジャー・シーズン2のDVDを買いました

 スタートレックという、このアメリカのテレビ番組について、僕がもし語るとなると間違いなく新書本一冊分のテキスト量になるであろう。それほど、このテレビ番組から受けた影響は大きい。そもそも、少年の時に、海の向こうの「外国」という異質の文化・文明について知るということへの興味と関心を僕に教えてくれたのが、このテレビ番組シリーズだった。外国の中でも、とりわけアメリカに関心を持ったのも、このテレビ番組シリーズを見たことも影響している。今日の私があるのは、スタートレックがあったからである。

 そのスタートレック・シリーズの第4シリーズが「スタートレック・ボイジャー」(略称VOY)だ。1995年に始まったシリーズで、2001年5月をもって終了している。今年からDVDのリリースが始まった。1966年に始まったスタートレックは、その内容がSFドラマとしてしっかりとした内容になっていたが、1987年から 94年にかけて放送された第2シリーズの「新スタートレック The Next Generation」(略称TNG)で、もはやたんなるSFドラマではなく、良質のヒューマンドラマとして確立したと言えるだろう。

 このTNGもすごく好きなのだけど、VOYはTNGとともに僕が大好きなシリーズだ。なんといっても女性艦長のキャサリン・ジェインウェイン大佐がいい。ドクターのキャラがいい。セブン・オブ・ナインはみんないい。(みんなって、なに?)(^_^;)ちなみに、ヒューレット・パッカードのCEOのカーリー・フィオリーナを見るとUSSボイジャーのジェインウェイン艦長を思う。

 このストーリィは、惑星連邦の宇宙艦隊の航宙艦USSボイジャーが調査任務中に謎のテトリオンビームによってクルーごと地球から7万5千光年離れたデルタ宇宙域に転送されてしまう。VOYは、このデルタ宇宙域から地球に帰還するまでの行程の物語だ。

 このVOYの待望のDVDリリースが今年から始まり、今月は第2シーズンのDVDの発売だった。以前、CS放送のスーパーチャンネルでVOYは見ているのだが見逃した回も多い。こうやって、DVDでまとめて見れるのはなんとすばらしいのだろう。当然ながらTNGもDVDで全部持っているが、その昔、サンフランシスコへ行った時は必ずTNGのビデオを何本か買ってきたものであったが、今やこうやってDVDで見れるというのはなんていい時代になったのだろうか。

 VOYはスタートレック・シリーズの中で、しっとりした感じがするエピソードが多いように思う。これはTNGの時から作品にたびたび参加していた女性脚本家のジェリ・テイラーが、VOYでは脚本と制作のレギュラー・スタッフになったからかもしれない。作品の内容の幅の広さと深さは、TNGよりVOYの方が大きいように思う。

 今の現実のアメリカの政治は、ますます墓穴に向かっているように見えるのだけど、スタートレックを見るたびに、こうした優れた番組を作れるアメリカはまだまだ大丈夫なんじゃないかと思う。

August 29, 2004

マイケル・ムーアへの反論本とアンチ・ムーア・サイト

 マイケル・ムーア反論本とも言うべき本が出た。"Michael Moore Is A Big Fat Stupid White Man " by David T.Hardy & Jason Clarke, ReganBooks(2004) 9月に日本語訳も出るようだ。この本を僕は今日買ってきて、まだパラパラとしか内容を見ていないのだけど、まあ、なんですね、アンチ・ムーア・サイトでよく見かける反論ばっかりみたいな感じですね。

 ちなみに、アンチ・マイケル・ムーア・サイトをいくつか紹介しておくと、

mooreexposed.com

 マイケル・ムーアは高級アパートメントに住んでいる、子供を労働者階級がいないハイクラスの私立学校に通わせている、だから矛盾しているという主張は、まるで中学生の主張ですね。

moorelies.com
moorewatch.com

 この2つのサイトは読んでいて楽しい。ムーアは非愛国者である的なトーンが満載。実際のところ、マイケル・ムーアの言動を追っかけるよりも、政治や外交そのものに目を向ける方がいいような気がするのだが。

 "Michael Moore Hates America"という自主制作映画があるようだ。これもまあ、なんというか。マイケル・ムーアについての「ドキュメンタリー」映画を作るのならば、もっと政治そのものを対象にした映画を作った方がよっぽどいいような気がする。例えば、沖縄での米軍ヘリ落下事件で、なぜ米軍は日本側による現場検証をあれほどかたくなまでに拒否したのか。なにか日本人に知られては困るものがヘリにあったのかと思っているのだが。これを追及した映画を撮ってくれないかなあと思う。

 アメリカでは、日本よりも政治の話題のコメディやジョークはさかんだし、政治の話題で話が盛り上がる。例えば、日本のネットでは政治の話を書き込んでも、それへの反応はほとんどない。それに対して、アメリカのネットでは政治についてそれなりのことを書き込むと、必ずといっていいほど、それに反応した書き込みが帰ってくる。同意見もあれば、真っ正面から反論するものもある。日本だと、政治の話は、なんかカタイ、クライみたいなイメージがあって、なかなか議論にならない。このへん、アメリカ人にはそんな感情は一切ないから議論をしていておもしろい。根本的に、政治に対する考え方が日本とアメリカは違うなと思う。

 これらのアンチ・ムーア・サイトも、マイケルが有名人だろうがなんだろうが、その言っている内容に、自分はこう考えるという意見表明みたいなものである。こーゆーふーに、マイケル・ムーアについて好きだキライだ。ブッシュは正しい、正しくない。共和党を支持する、支持しないとか、ごちゃごちゃ会話することから、政治について、社会について考えるということが始まるんだと思う。まあ、日本で言えば、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』を読んで、あれこれ考えるみたいなもんだろう。社会に関心を持つきっかけとして悪くない。"Moore Bush"というアニメーションは爆笑もの。(かなりロコツです)

August 28, 2004

マイケル・ムーアへの反論について

 マイケル・ムーアの『華氏911』について保守主義のコラムニストのChristopher Hitchensが反論している。この映画に対する保守主義者の反論とは、たいてい「これはドキュメンタリーではない」「政治的プロパガンダだ」「偏っている」「事実ではない」等の内容になる。Hitchensのも同様のもので、よくある反ムーア論になっている。

 おもしろいのは(おもしろいと言っては不謹慎だな)保守主義者の反ムーア論は論点が合っていないということだ。例えば、『華氏911』は、平和なイラクの子供たちの日常の姿の映像の次に、アメリカ軍によるバクダット空爆の映像が出る。これは正しくない、サダム・フセインがいかに民衆を虐待したかの映像も出さなくてはならないという。しかし、アメリカのメディアでは、アメリカ軍の攻撃によるイラクの民衆の被害をまったく映像に出さない報道がほとんどすべてある以上、それらもまた「偏っている」ことになる。アメリカが行ったことは、フォーマルに言えば、テロリストを援助し、イラク民衆の自由を弾圧するフセイン体制を倒すことであっただろうが、結果的に無邪気に遊ぶイラクの子供たちの頭上に爆弾を落としたことになるというのは紛れもない事実である。

 報道の客観性という虚構を観客に押しつけるよりも、編集者の演出意図をストレートに観客に伝える手法もありうる。視点というのは、そもそも「偏っている」ものなのである。これまで映像を操作するのはメディア側だった。大衆はメディアの流す報道をただ受け入れるしかなかった。しかし、ここにメディアとは違う観点で、自分で映像を編集して映画館で上演して人々に見せる太った男が出てきた。映画というものは、実は極めて政治的な道具であり、ハリウッドの娯楽映画のことだけを意味するのではないことに気がつかせてくれた。『華氏911』は、これまでアメリカのメディアが伝えてこなかったイラク戦争への「もうひとつの異なる視点」を観客に与えるものだ。大衆の、自分たちの政府や自分たちが今いる社会体制への健全な懐疑心こそ、アメリカの草の根民主主義の基本中の基本である。

 僕がイラク戦争賛成派の人々の主張で一番わからないのが、「イラクの無実の民衆を殺戮するのはやめろ」という意見に対して、彼らは「フセインが行ったイラクの民衆への虐待はほおっていてもよかったのか」と言うことだ。つまり、イラク戦争には大義がある。なぜならば、あの悪逆非道のサダム・フセインを倒すことだできたからだという。ここのロジックがよくわからん。なぜ「民衆を殺すこと」は「フセイン政権を倒すこと」なんだから良いことになるのかがわからない。ようするに、「民衆を殺すことは、フセイン政権を倒すためにやむを得なかった」ということなのだろう。

 彼らは「9月11日の同時多発テロでもアメリカの罪なき人々が殺された」と言うが、だから「イラク人を殺していい」ということには当然ならない(ましてや、イラク人はアルカイダとは関係ない)。大体、同時多発テロの報復と称して、アフガニスタンを空爆したということ自体に、もはや正常な思考ではない。

 マイケル・ムーアは、サダム・フセインの政権がいいと言っているわけではない。イラクの罪なき人々を殺すのはやめろ、アメリカの一部の特権階級のために低所得者層の若者がイラクで死ぬのはやめろと言っているのだ。言いたいことはこれだけなのに、なぜか保守主義の人々は「では、フセイン政権が存続してよかったのか」という話に論点がすり替わる。もはや大量破壊兵器もアルカイダとの関係も見つからなくなった今、中近東からフセイン政権を排除できたことが保守主義者の唯一のイラク戦争の大義になっている。「フセイン政権が存続してよかったのか」と言えば、「よくない」と答えるしかない。しかしながら、「だから、(イラクの子供たちを殺して)良い」とは言えないはずだ。この1点を保守主義者は巧みにそらすのである。

 では、なぜ保守主義はそうするのか。実は保守主義者も、戦争の被害にみまわれるイラク民衆の姿を見て、「これでいい」と本心では思っていないのだと思う(そう思っている者もいるだろうけど)。しかしながら、だからイラク戦争を反対するということができない。保守主義の思想的基点に、愛国心や共同体の価値観の尊重というものがある。アメリカの行動は正しいという価値基準があるためイラク戦争を批判することができない。『華氏911』は、この保守主義の矛盾もしくはジレンマに触れたために猛反発を喰らうことになったのだと思う。保守主義は、自国の利益のためには他国の人間の生命を否定しても良いのかという命題に答えていない。キリスト教の倫理から見れば、人の命にアメリカ人もイラク人もないはずだ。自国民の命については過剰な程の関心を持つが、他国人の命に対してはそれほど関心を持たないというのは、ある種の歪んだ世界観だ。

 30日にニューヨークで開かれる共和党大会に、30万人の「反ブッシュ」を掲げる市民や団体が全米から集まるという。今のアメリカの政治の歪んだ世界観に対するアメリカ民衆の健全な姿だ。

(アメリカの保守主義にもいろいろある。上記で言う「保守主義」とは、いわゆるNeo-conservativeのことであって、それとは違う考え方をする保守主義もある。Neo-conservativeは、アメリカの保守主義思想の中でいわば亜流であり、これを本当に「アメリカ保守主義」と呼んでいいのかというと疑問がなくもない。)

August 26, 2004

マイクの保守思想ブログ

 僕はCompuServeというアメリカのネットでもよく書き込みをしている。そこで常に論争相手になるわが友マイケル・ロスが、このたび日本語のブログを開いたので紹介したい。彼は日本生まれ、日本育ちのアメリカ人で、大学はアメリカの大学を卒業している。日本人女性と結婚して日本に帰化したという人物だ。

 彼は保守主義者である。ブッシュ政権および共和党の支持者である。日本にアメリカの保守主義を広めたいという使命感を持っている。僕は日本人の思考とアメリカの保守主義はなじまないと何度も言っているのだが、彼はそんなことには同意しない。このへんが彼の保守主義者たるところであろう。彼のブログもまた、アメリカの保守主義を日本に広めるためのブログである。

 実際のところ、日本ではアメリカの保守主義思想だけではなく、アメリカの政治思想そのものがよく理解されていない。幕末の志士たちに影響を与えたのは、アメリカの政治だった。しかしながら、明治以来、日本は社会思想や政治思想をヨーロッパから導入し、アメリカの思想や哲学にはさしたる関心を持つことがなかった。今でも日本の知識人は、ヨーロッパの文物にはやたらくわしいがアメリカの政治思想については知らないという人が多い。ロックとカントリーと、コカコーラとハンバーガーと、ハリウッド映画の国に思想なんてものはないものと思っているらしい。

 しかしながら、アメリカ革命こそ、フランス革命とは違う形で、この21世紀の世界を大きく変貌させているものの始まりだったことを思えば、アメリカの政治思想を理解することがどれだけ重要であることかがわかるだろう。アメリカについて考えることの根っこというか要みたいなものは、アメリカ史とアメリカ政治思想についてどれだけ理解しているかである。

August 24, 2004

反ケリー広告に思う

 アメリカの大統領選挙は、現在、Anti-Kerry広告をめぐって白熱している。ベトナム戦争で活躍し、勲章を授与されたケリーの軍歴を、退役軍人がウソだと証言するテレビ広告が今アメリカでは流れている。さらに、このテレビ広告の最新バージョンでは、ケリーがベトナムから帰国し除隊した後、上院外交委員会で反戦の証言をしたことについて、彼は国家への面汚しだとさえ言っている。

 ケリーがベトナムでなにをしたのかということは、フツーの一般ピープルにとってはどうでもいいことなのかもしれないが、ベトナム戦争退役軍人のみなさんにとってはどうでもいいことではないようだ。これは大統領選挙での退役軍人の票の動向を左右することなのであろう。だから、こうやってわざわざテレビで流しているのだ。

 ここで、だ。そもそもベトナム戦争というのは、意味のある戦争だったのだろうかという問いかけはできるだろうか。つーか、どうもベトナム戦争退役軍人のみなさんにとって、あの戦争は意味のある正しい戦争になっているようだ。ベトナム戦争には数々の間違いがあった、意味のある戦争ではなかったと言っているのはインテリぐらいであって、一般民衆のベトナム戦争体験者にとっては、ベトナム戦争は「正しかった」のであり、「意味があった」のである。サイゴンは陥落し、南ベトナムは解体、アメリカ軍は事実上の敗北をして撤退し、ベトナムは社会主義国になったのだけど、それでも「正しかった」のであり「意味があった」のである。

 ある意味で、それは当然のことだろう。誰も自分の若い時代の一時期を捧げた戦争について悪く思うわけがない。もちろん、ナパーム弾や火炎放射器で焼き殺された北ベトナムの人々を思えというのは正論である。しかし、だからといって、ベトナム戦争体験者の人生を否定することはできない。もし、その理由で否定をするのならば、今後、命をかけて国家のために働くという意思を誰も持とうとはしなくなる。だから我々は、戦没者を礼拝し、退役軍人に彼らの国家への奉仕を讃え、名誉を与えるのである。命をかけて国家のために働くなんて大げさな。そんな仕事なんてありゃしないよ思うのかもしれないが。軍人はそうした「大げさな覚悟」がなくては職務を全うできない。

 アメリカは、社会の中で軍、軍人、退役軍人などの占める大きさが圧倒的に大きい。この「大げさな覚悟」が社会の中に歴然とある国なのである。だからこそ、大統領候補者が35年前に東南アジアのジャングルの中で何をしたのかが問われる。

 では、ひるがえって我が日本国はどうですかというと、この「大げさな覚悟」はあるところにはあるが、アメリカのように社会の全面にストレートに出てこない。戦後の教育では、そうしたことは教えない。社会の中で自衛隊、自衛官、退役自衛官などの占める大きさが圧倒的に小さい。

August 23, 2004

アメリカで徴兵制度が復活しつつある

 アメリカで徴兵制度が復活しつつあるようだ。合衆国の18歳から26歳までの男女は、2年間の軍隊での兵役か、あるいは民間団体での国防と国家安全のための活動に奉仕しなくてはならないという。この法案は"The Universal National Service Act of 2003"と呼ばれる。7月6日時点では、この法案は議会で提出されている段階であり、まだ大統領の承認を得ていない。しかし、ブッシュがこれにサインをすればこの法律が施行されることになる。

 これほどアメリカ国民にとって重大な法案の存在が、なにゆえアメリカのメディアでは大きく扱われないのか不思議だ。大統領がサインした後で、メディアは徴兵制度が復活しましたと報道しようというのか。アメリカの徴兵制度は1973年に廃止になっているが、今の中年世代以上の人は多かれ少なかれベトナム戦争の記憶がある。つまり、議会にいる政治家たちにとって、徴兵制度なんて「自分たちの若い頃にはあった」(ただし、若い頃には徴兵制度があったということと、実際に徴兵でベトナムに行ったことがあるということはイコールではない)というわけで、カンタンに徴兵制度を復活することができるのではないか。今の大統領のブッシュのように、親の地位が高いと兵役なんてどうとでもなる。政治家は、自分の息子や娘を徴兵で戦場に出すことはしないだろう。兵役はアメリカ国民の義務となるわけであるが、実際に兵役につくのは低所得者層の息子や娘なのである。

 問題は、ブッシュがこの法案にサインするかどうかだ。大統領選挙前のこの時期にサインをすることはないだろうなと思うが、案外隠れてサインしてしまうことも十分考えられる。なんといってもメディアが取り上げないのだから、誰も知らないよな。しかし、もしブッシュ再選ということなれば、この法案にサインをする可能性は高いと思う。

 もしアメリカに徴兵制度が復活したら、日本も徴兵制度が復活しないとも限らない。

 僕は、今まで徴兵制度なんてまさかやりはしないだろうと思っていた。しかし、この法案の存在を知って、少なくともアメリカは徴兵制度が現実の一歩手前になっているということを思うと、日本も将来、徴兵制度の復活はないとは言えない。

August 22, 2004

ナベツネ氏の謎の辞任劇

 スポーツ・ジャーナリストの成田好三氏が非常に興味あるコラムを書いているので紹介したい。

 なにやら巨人で選手のスカウトする際に、その選手に対して200万円の裏金が支払われたという。この内部文章の存在を報道したのは、朝日新聞だった。これに対して、読売新聞はその事実を認め、プロ野球会界はこの出来事への調査と処罰を行うという。

 この調査と処罰を行うのは、コミッショナーの根来泰周という人である。この裏金問題は、実は今回が初めてではなく、球界では常識化していることだという。ところが、この根来泰周という人は「過去の不正行為は調査しない」という意味の発言をしている。根来氏によると、「ないことを祈るしかないが、改めて調査するには限界があり、もし疑いがあるとすれば各球団の自浄能力に期待するしかない」とのことであるが、これはもう「なにもしない」と言っているのに等しい。さらに巨人の球団社長の桃井恒和氏も同様の発言をしている。これはつまり、根本的改善はなにもしないということを意味している。と同時に、裏金を使って選手のスカウトを行うということが常識化している現状に対して、アマチュア野球界の側もこのままでいいという意思表示をしたことなる。つまりは、アマチュア野球界の指導者側にもなんらかの(公にはできない)利益が入る仕組みになっているようだ。それを「改善」するなんてつもりはまったくないのだろう。

 で、僕は野球にはそれほど関心はないので、このこと事態は「ふーん」という感じがしないでもない。体制の末期的症状はどこも同じようなものであり、だから日本のプロ野球はもう終わりなんだろうなと思うだけだ。

 しかし、だ。この事件の責任をとるということで、読売巨人軍オーナーの渡辺恒雄氏が辞任した。今回の事件で言えば、裏金は200万であった。2千万円でも、2億円でもなく200万円である。この渡辺氏の日頃の言動を見ると、200万円で巨人軍のオーナーを辞任する人とは思えない。どうもなにかあるのではないか。

 渡辺氏の辞任が発表は8月12日だった。翌日の13日にはアテネ五輪の開会式だった。各メディアはオリンピック騒ぎとなり、誰も渡辺氏の辞任の不可解さを思わなくなった。この、発表しちゃと非常にマズイことになるのだが、どうしても発表せざる得ない場合、なにか大きなイベントの直前に世の中に発表することによって、人々の関心をそらすという手法は政府がよく使う手であるが、今回の読売新聞が行ったことはそうしたことだった。

 つまり、プロ・アマ野球界の裏金システムというものに対して、オーナーは辞任、だたし、その辞任発表はオリンピック当日前に行うことによって、人々の話題になることを避ける。コミッショナーと社長は、今回の事件のことは(ばれてしまったから)処罰するけど、このシステムは今後も変えない。ばれなきゃ、なにやったっていい。で、すべての幕を下ろそうとしている。

 それで済んでしまうのかというと、実は済んでしまうのである。近鉄の40億円などといった球団の経営損失は親会社からの補填によってまかなわれている。これは親会社から子会社へのいわば「贈与」になり課税対象になる。しかしながら、プロ野球の場合は1954年の国税庁通達で、赤字補填金が広告宣伝費の性質をもつ場合は全額経費として認められているという。

 同様に、選手のスカウトの際の裏金という正規の契約金以外の金品の贈与になる。しかし、これも「広告宣伝費の性質をもつ」という題目が成立するのならば課税対象にはならないだろう。つまり申告義務もないということになる。あとは、社会的道義から見てどうかということのみであり、この人々は社会的道義なんてどうとでもなると思っているのであろう。

 成田好三氏はコラムの中でこう書いている。

「プロ野球界は、国税庁から税金面で特別な保護を受けている業界なのである。戦後、国民的娯楽を提供する業界として認められ、さらに当時の業界人の強い政治力によってこの「保護通達」ができたのだろう。そうした特別扱いを受けている業界が、赤字で球団経営が成り立たないと言いながらも、巨額の裏金を横行させているとしたら、これは間違いなく悪質な犯罪行為である。」

 プロ野球は1リーグ制になろうと、2リーグ制になろうと、この体質が変わらない限り、プロ野球の未来はないなと思う。もう戦後の巨大な大衆娯楽としてのプロ野球の時代はとっくに終わっている。

August 18, 2004

『ラストエグザイル』はいい!!

 『ラストエグザイル』というアニメを今見ている。これは去年、テレビ東京の深夜枠でやっていたアニメで、知る人ぞ知る良質のアニメだったという。僕がこのアニメのことを知ったのは、『プラテネス』の挿入歌「A Secret Of The Moon」や「Planetes」を作詞・作曲して自分でボーカルをやっているHitomiという人は、他にどんな作品の音楽をやっているのかなと思って調べてみたことがきっかけだった。最初、Hitomiって、エイベックスのHitomiのことかと思っていたのだが違う人だった。音楽のジャンルが違うよな。

 Hitomiというのは黒石ひとみという人で、『プラテネス』の他にも『ラストエグザイル』というアニメ作品の音楽をやっているということがわかった。で、それではと、この『ラストエグザイル』というアニメについて調べてみると、なんかすごくいい作品だという。音楽も評判がいい。絵もきれいで、キャラクターのデザインもいい。そうだったのか。そんないい作品があったのか。これは見なくてはいけないなと思い、まず近所のTSUTAYAへ行って、探してみるとビデオ版であるではないか。いやあ、家の近くに充実したレンタルビデオ屋さんがあるというのは人生の幸福ですね。

 というわけで、まず第1話から第6話まで一気に見てみた。これすごくいい。作品の内容も、音楽もいい。とにかくいい。みんないい。

 『ラストエグザイル』の全般の音楽を手がけているのは、ドルチェ・トリアデという女性3人のユニットで、その3人の一人が黒石ひとみさんだ。エンディング・テーマは黒石ひとみさんが一人でやっている。このエンディング・テーマは、もう感動もの。やっぱり、この人はいい音楽を作る人だなあと思う。あと、オープニング・テーマもまた良くて、これは沖野俊太郎という人が手がけている。このオープニング・テーマは映像もすごく良くて何度見ても飽きない。

 この作品は、世界観がしっかりしていると思う。それとCGの使い方がうまい。クラウス・ヴァルカという15歳の少年が主人公だ。15歳の少年というと、すぐに「15歳のリアル」とか言い出すアニメとは違って(^_^;)、素直で淡々とした男の子だ。アナトレーという国に住んでいて、両親は亡くなっていて、ヴァンシップという小型飛行艇に乗って配達人の仕事をしている。この小型飛行艇というのが、複葉機的雰囲気があってすごくいい。この世界では、飛行機はレシプロ・エンジンで空を飛んでいるわけではないのだが(それにレシプロ・エンジンでは、あの翼面積では飛べないだろう)、小型飛行艇で配達をしているというのは、20世紀初期の複葉機の時代を思わせる。この少年が、ある日、アルヴィスという少女を空中戦艦シルヴァーナに送り届ける仕事を受け継いだことから、上空で繰り広げられている国家間の戦争に巻き込まれていく。

 これを見ていると、少年が(少女だって)精神的に成長していくってことは、学校で机に座って勉強をしていることではないなということがわかる。なんか、クラウスを見ていると、ああっ自分もしっかりと自分の仕事をしていかなくちゃいけないなと思ってしまう。

 「空を飛ぶ」ということを一番美しく描くのは、宮崎駿のスタジオ・ジブリであるというのがもっぱらの評判であるが、そんなことはない。『ラストエグザイル』の空や雲や風やヴァンシップが空を飛ぶシーンは見ていて心地よくなる程うまい。

 ほんともー最高にいい作品なのだけど、DVDの値段が高い。一枚のDVDに二話しか入っていなくて、6000円は高いじゃあないか。『プラテネス』は一枚のDVDに三話入っていて、それで大体同じくらいの値段なのだけど。ラスエグは高いではないか。さすがの僕も全13巻を一度に買うのは、ちょっと躊躇してしまう。でも、やっぱ買うんだろうなあ。とりあえず、ビデオ版は今現在第18話までしかないので、そこまではTSUTAYAで借りて見るとして、それ以後は買ってしまおう!!

August 17, 2004

『年次改革要望書』というものがある

 『年次改革要望書』というものがある。そういうものがあるということを、関岡英之著『拒否できない日本』文春新書(2004)を読んで知った。『年次改革要望書』とは、日本の各産業分野に対してアメリカ政府が機構改革や規制緩和などの要求事項を通達(「提出」でも、「要望」でもなく「通達」が正しい)する文章である。ただの外交文章ではない。ここでアメリカ政府から要求されたことは、日本の各省庁の各担当部門に割り振りられ実行されていく。そして、この要求が実行されたかどうか、日米の担当官が定期的に会合を持ち、チェックする仕組みになっているという。さらに、この文章を毎年、日本政府に通達するアメリカの通商代表部は、毎年アメリカ議会から勤務評定を受ける。つまり、通商代表部としては、日本政府が実行しないと自分たちの評価が下がるので、いかなる圧力をかけても日本政府に実行を求めなくてはならない。

 例えば、最近各大学で創設された法科大学院制度は、この『年次改革要望書』の要求内容のひとつであった。司法制度の改革とは、アメリカの基準に合わせるということであり、やがてアメリカの弁護士資格でも日本で弁護活動ができるようになるだろう。アメリカの大手弁護士事務所が日本でも法律事務所を開くことができるようになる。会計制度や商法もアメリカを基準に改定されることになる。公取委員会もアメリカの都合のいいように変えられていく。今の日本政府が言う「改革」とは、この『年次改革要望書』のことであると言ってもいいだろう。なにしろ、『年次改革要望書』は、実行時期は別としても、今後必ず行われる「改革」のリストなのだから。これからの日本はどうなるのかの一面は、この文章を読むのが一番手っ取り早い。

 『年次改革要望書』を読むと、よくもまあ、これだけ、細々と他人の国に介入できるものだなと思う。そして、徹底的に日本を調べている。まるで、GHQの日本占領統治時代のままである。この『年次改革要望書』が毎年提出されることは、1993年の宮沢首相とクリントン大統領の首脳会談で決まったことだという。アメリカが外圧を日本に加えるためにクリントン政権が作ったものであった。以後、クリントン政権からブッシュ政権に変わっても、この制度は受け継がれた。さらに言えば、1993年以前の1989年の「日米構造協議」から、アメリカが日本に具体的な改善要望を突きつけるということが行われていた。

 この「日米構造協議」は、日本改造プログラムとでも呼んでいいものだった。1980年代の後半に、対日赤字の原因は日本側の閉鎖的な市場制度、不可解な商慣行や流通機構、政と民の癒着、系列等といった経済システム、社会システムに問題があるとし、それらの根本を改革しなくてはアメリカ企業の競争力を高めることができないと考えた。内政干渉をしてでも、アメリカの自由貿易(つーか、アメリカの国益)を維持しなくてはならないとした。そこで行われた「日米構造協議」は、もはや第二の占領政策であり、主権国家間のまともな交渉ではなかったという。そもそも、「日米構造協議」というコトバが苦心の意訳であったという。英語ではStructural Impediments Initiativeであり、正しく訳すと「構造的障害イニシアティブ」となる。Initiativeとは、辞書で見ると「主導権、議案提出権、発議権」とある。誰が「主導権、議案提出権、発議権」を持っているのかというとアメリカである。つまり、「アメリカが日本市場に参入する際に障害になるものを、アメリカの主導で取り除こう」という意味である。「日米構造協議」というものではない。

 このInitiativeのままで、現在の『年次改革要望書』もある。これほど重要な『年次改革要望書』のことをマスコミは報道したことがあったであろうか。例えば、NHKスペシャルとかでやってもいいものだと思うが、そうした番組がなかったのはなぜか。僕はそれなりに今まで日米関係の本を読んできたが、この『拒否できない日本』という本を読むまで、どの本にもこのことはまったく載っていなかった。

 では、この『年次改革要望書』はどこで入手できるのかというと、在日アメリカ大使館のホームページで簡単に入手できるのだ。アメリカのワシントンDCに行かなきゃ見れないとか、極秘文章なのでフツーの人には見れないとかではなく、誰でも自宅でインターネットで見れるのである。それも、ご丁寧なことに日本語訳で。これほど露骨な内政干渉をしていても、堂々と公文書としてあけっぴろげに公開しているのである。つまり、アメリカは当然のことをやっているだけだと思っている。

 当然と言えば、確かに当然のことで、アメリカ政府がアメリカ企業の利益を要求してなにが悪いのかというと、悪くないというしかない。他国をそういうふうにしか見れないアメリカという国は、どこか欠落したものがあるなと思うが、これが現実なのだからしかたがない。アメリカって、そーゆー国なのだ。

 問題なのは、日本側が日本国民にこの事実を隠しているということだ。

「絶対に安全です」は絶対に信じてはいけない

「関西電力は16日、美浜原子力発電所3号機の蒸気噴出事故が起きた配管以外にも、同機と高浜原発1号機、大飯原発3、4号機の計4基で、配管の厚みの検査漏れがあったと発表した」

「原発は絶対に安全です」というコトバは、絶対に信じてはいけないな。

August 16, 2004

靖国神社へ行きました

 今年も15日に靖国神社へ行ってきた。例年通り、九段下の地下鉄の駅を出ると。そこは老人と右翼のお兄さん方と警視庁の機動隊のみなさんばかりの光景になる。

 このお年寄りの方々を見ていると、ほとんどの人が徴兵で戦争に行った方々であるような感じがする。このへん、調査データがあるわけではないのだが、8月15日に靖国神社に集まってくる老人たちの多くは、職業として軍隊を選択して、士官学校を出た将校ではなかったと思う。この人々は、階級が下士官か兵だったと思う。大学生の学徒出陣ではなく、フツーの一般人が徴兵で招集されたのならば必然的にそうなる。軍隊の組織は、ピラミッド型の階級構造になっているため下士官と兵の数が圧倒的に多い。だから、今でも存命されている方々も、下士官や兵だった人が多いのは当然であろう。

 靖国神社に祀られている側は、階級の区別はない。将官もいる、兵もいる。しかし、靖国神社はそもそもこうした下士官と兵のための神社なのだと思う。もちろん無能な将官や指揮官では困るが、実質的に軍隊を支えているのは下士官と兵である。実際に戦場で戦うのは、軍隊組織のピラミッドの底辺なのだ。こうした人々の人生とともに靖国神社はある。靖国神社はイカンとか、別に無宗教の施設を作ればいいという意見は、これらの人々の人生に向かって「あんたの人生は間違いだった」と言うことになる。若い頃、好きでもない軍隊に天皇の命令ということで招集されて、戦場で戦い、戦争が終わったら、「あんたの人生は間違いだった」と言われるということになる。とてもではないが、私にはそんなことは言えない。

 靖国神社は大東亜戦争の肯定をしている、だから、靖国神社に参拝するという宗教行為は大東亜戦争を肯定していることになるという意見には私は同意しない。靖国神社が大東亜戦争は「正しかった」とするのは神社の立場上当然であって、歴史学的観点から「正しかった」と言っているわけではない。また、靖国神社に参拝するという行為は、大東亜戦争を肯定することにはならない。神社の主張と参拝する個人の内面は別のものである。例えば、神社に参拝することが、日本神道の教義・世界観に同意することにはならない。

 ただ、僕自身はいつもそうなのだが、僕の場合は、神社へ行っても境内の中でぼおおっと突っ立っているだけで、いわゆる参拝という行為をしない。これは別に靖国神社だからというわけではなく、どこでもそうだ。神社とは、その神社全体の空間に意味があって、社殿そのものに意味があるわけではないと考えるからだ。もともと、古神道の神社には社殿はなかった。山そのものや巨石や巨木を社殿としていた。自然の森羅万象にカミを感じるのが神道だった。だたし、靖国神社は明治以後の国家神道の神社であり、その意味で本来の日本神道とは違う部分がある。それを思うと、境内でただぼおおおっと突っ立っていることは、靖国神社の「正しいお参りの仕方」ではないなと思うが、まあいいや。

 正午になると、靖国神社の道向かいの日本武道館で行われている政府の全国戦没者追悼式での天皇の「おことば」が靖国神社の境内でも流れる。どうもここ(靖国神社)では、今の天皇は「皇太子」であって、天皇というと昭和天皇のことをイメージしてしまう。広島・長崎の「原爆の日」と同じく、ここも昭和20年の8月15日で時間が止まっている。

 靖国神社にはA級戦犯が合祀されている。だからイカンという意見があるが、僕はこれにも同意しない。「A級戦犯」を選別したのは、東京裁判の検察であって、今の視点から見れば「戦犯」とするのは正しくない人物も少なくない。例えば、東条英機や板垣征四郎を「戦犯」とするのは仮に正しいとしても、広田弘毅や東郷茂徳を「戦犯」呼ばわりするのはどう考えてもおかしい。靖国神社にはA級戦犯が合祀されているから宜しくないという人は、誰がどのような理由で「A級戦犯」になっているのか、それを踏まえた上で言っているのだろうか。そもそも、東条や板垣でさえ「戦犯」なのかというと、かなり疑問がある。少なくとも、広田や東郷も靖国神社にA級戦犯として合祀されているが、彼らを戦争犯罪者と呼ぶのは間違っている。つまり、靖国神社のA級戦犯合祀問題というのは、その前提となる誰がどのような理由で「戦犯」になっているのかということへの着目がないため、ひたすら不毛な議論になっている。

 自衛官の戦死者は、現在のまでのところいない。仮に戦死者が出ても、もはや靖国神社には祀らない。だとすると、従軍体験者や遺族の方々もやがて世の中からいなくなる。あの戦争で死んでいった者たちの意味はなんであるのかということは、終戦の時からずっと問題だった。しかし、「問題だった」というのも、あの戦争を体験した世代がいるからであり、そうした世代がいなくなれば、その「問題だった」も消えてなくなる。戦争の記憶が風化していくことは避けられない。靖国神社もまた歴史の流れの中で、やがてたんなる歴史的場所になるだろう。

 むしろ問題になるのは、これからの日本のナショナリズムのあり方だ。当然のことながら、靖国神社はその歴史的役割を終えたのであって、21世紀の日本と日本人の面倒までは見てくれない。そこを無理矢理、面倒を見させようとしても無理があるのでそのうち破綻する。靖国神社に頼ることはやめよう。我々は、我々で考えていくしかない。

August 15, 2004

マイケル・ムーアの『華氏911』を見ました

 マイケル・ムーアの『華氏911』を恵比寿ガーデンシネマで見た。朝いちの回で見ようと8時頃に恵比寿に行くと、ものすごい長蛇の列が!!これは、昨日の夜のオールナイトで見るべきであった。それにしても、もっと早く来ればよかったなあと思いながら列の最終に並ぶ。日本テレビとTBSのTVクルーがきていて、なんかうざい。

 しかしまあ、やはりというか、日本でも関心が高いのだなと思う。マイケル・ムーアは、別に国際問題を扱っているわけではない。ここで扱っている問題は、すべてアメリカ国内の政治と社会問題である。従って、他の国がどうこうできるものではない。大体、僕たちはアメリカ市民じゃないのだから、アメリカ大統領の選挙権を持っているわけではない。しかしながら、それでも、この映画は世界中でヒットしていることを思うと、いかに世界中の人々がアメリカの今年の大統領選挙に関心があるかということであろう。次の4年間もブッシュになるのか、それともそうならないのか。これは、世界のどの国にとっても切実な問題なのである。良くも悪くも、アメリカは世界の注目の的になっている。

 あまりにも人が多そうだったので、午前の最初の回で見ることをやめて、午後2時5分の回で見ることにした。とりあえず、えんえんと列の順番をまって、受付で時間指定の入場券を買って、改めて2時前に恵比寿へ行くと、なんとまだ長蛇の列が!!受付の表示を見ると、夜の最終の回以外はみんな満員になっている。こりゃあ今並んでいるみなさん全員は今日は見れないなあ。

 さて、劇場の中に入り席に座る。周囲を見回してみると、まず男性は20代らしいワカイモンがまず多い、次に老人というか年配の方の姿をよく見る。つまり、僕のような年代、30代から40代らしき男性はあまり見かけないのだ。この午後2時の回がそうなのだろうか。そういえば、朝の列にもそうした年代の男性はあまり見かけなかったと思う。この年代の男性は、あまり映画館には行かない年代ではあるのだが。世の働くおとうさんたちは、あまり外国の政治のゴタゴタには関心がないのだろうか。女性は20代らしき人から30代、40代らしき人とほぼ全般で見かける。典型的オバサンらしき人は見ない。初日に見に来る人々は、マイケル・ムーアの本は全部読んでいるか、DVDは全部見ましたというマイケル・ファンが多いのだろう。

 多くの人が言っているように、この映画は最新著書の『おい、ブッシュ、世界を返せ!』に書いてあることをそのまま映画にしたようなものなのだが、文章で読むのと映像で見るのではインパクトが違う。本を読まない観客(アメリカの一般大衆は本を読まない)に視覚的に、いかにブッシュがアホであるかを伝える映画なので、本の内容のままだといってこの映画を批判するのはお門違いであろう。

 ただまあ、よくこれほど大量の映像と情報を編集して「全部ブッシュが悪い!」的トーンでまとめたものだと思う。ドキュメンタリーにもドラマ的要素が必要だとする人から見れば、これはドラマ的構造も持っていない。ドキュメンタリー映像作家が見れば怒るだろうなあ。この映画は、明らかにアンチ・ブッシュに偏向している。客観的な視点と論理をもって現象を検証するジャーナリズムの基本のカケラすらない。「全部ブッシュが悪い」という結論が最初にあって、すべてはそこに集約されるように事実を編集している。こうした手法は正しくない。マイケル・ムーアの手法と、例えば、1972年、ニクソン大統領の民主党本部盗聴を暴いたワシントンポストのウッドワードとバーンスタインの手法とは天と地の違いがある。

 しかし、である。マイケルはこうしたことをよくわかっている上で、この映画を作ったのだと思う。ようするに、今度の選挙でブッシュを勝たせてはイカン、ブッシュを大統領の座から降ろさなくてイカン。そのためには、どうしたらいいのか。選挙で共和党に票が入らないようにすればいい。そこで、アメリカ全土の一般大衆に向かって、いかにブッシュはアホであるか、いかに社会的弱者がだまされているか、いかにイラク戦争は間違っていることなのか、共和党はこんな陰謀をたくらんだのだ、ということを伝えるのがこの映画の目的なのだ。

 浮動票って、物事を難しく考えて投票を決めるというよりも、イケイケのノリで投票しちゃうところがある。特に大統領選挙は、4年の一度のお祭り騒ぎっぽい感じがある。マイケル・ムーアの映画は民衆を煽っているという批判があるが、そもそも大統領選挙には煽りで投票しちゃえという部分があるんだから、煽ってなにが悪いという気がする。煽りがイカンというのならば、民主党の有力な大統領候補だったハワード・ディーンを失墜させたのはマスコミの煽りだったことはどうなるのか。大衆をある特定の方向に煽るというのは、選挙戦術のごく当たり前のひとつであろう。そして、この『華氏911』は大統領選挙のためのアンチ・ブッシュ映画なんだから当然だろう。

 だから、この映画はアメリカの社会の構造的な問題を論じていないとか、ブッシュの悪とアメリカの悪を混同しているとか、ネオコンの存在が全く触れられていないとか、イスラエルとのつながりはどうなんだとか、キリスト教右派の存在はどうかとか、民主党政権になれば、すべてがうまくいくかというとそうではないじゃないかみたいな意見があるが、『華氏911』って、そんな大げさな映画じゃないのよ。とにかく、今年の大統領選挙でブッシュを落とすべきだと言っているだけの映画なのよ。その程度のことなのかといえば、その程度のことなのだが、今のアメリカのメディアは、その程度のことができない状態になっている。その中で、マイケルは(誰を、あるいは、なにを恐れることなく)「その程度のこと」を堂々とやったということに意味がある。

August 14, 2004

北岡伸一著『清沢洌』を読みました

 北岡伸一著『清沢洌』中公新書(2004)を読んだ。以前、この本を探したことがあったが、その時は絶版で入手できなかった。ところが、最近、補増版として再出版された。

 清沢洌は、戦前の外交評論家である。戦前では、国際問題を論じる知識人はほとんどみな高等学校から帝国大学に学び、欧米に留学する経歴を持つが、清沢はその中でまったくの異色の経歴を持つ。小学校を出た後、中学校へ行くことが親の許可を得られず、近所の無教会派キリスト教の私学のような塾へ通う。ここで3年学び、日露戦争が終わった翌年の明治39年に16歳で単身でアメリカへ移民として渡る。シアトルで様々な仕事につきながらハイスクールで学び、カレッジで学んだ。しかし、仕事との両立のためか正式な卒業はしていない。やがて、現地の日系人社会の新聞の記者となり、ジャーナリストとしての人生を歩むことになる。大正9年、1920年に日本に帰国し、中外商業新報(現在の日本経済新聞社)の記者として記事を書くようになる。やがて東京朝日新聞に移り、さらに報知新聞の論説委員になり、そしてフリーの外交評論家になる。以後、さかんな評論活動を行い、「中央公論」や「改造」に時の政治家や政府の外交政策を批評する文章を積極的に書く。昭和16年、内閣情報局より総合誌での評論掲載禁止になる。そのため明治の外交史の研究に取りかかる。昭和20年、終戦の3ヶ月前に55歳で肺炎で亡くなる。

 この人は、当時の日本人では桁違いに優れた国際情勢の分析力を持っていた。今の時代の観点から見ても、この人ほど正確な日米関係を論じていた人は他にいなかったと断言できる。それほど優れた外交評論家であった。今の時代で言えば、大前研一のような日本人離れした論理と国際感覚の人であった。他の人と何が違うのかというと、清沢は帝大出で政府や満鉄調査部といった大企業に務めたエリートではなく、帝大の教授でもない、アメリカ移民としてアメリカで苦労して勉学を学び、アメリカ社会で働いてきた経験から自分の世界観を構築していったということであろう。従って、国家とか企業とか大学とかいった枠から離れて、一個人として、民衆の一人として国際社会を考えることができたのだと思う。

 この本を読むと、清沢の評論を通して、日米開戦を避けることが政策的に可能であったことがわかる。つまり、外交の手段によって戦争を避けることは可能であったということだ。と同時に、実際の歴史はそうはならなかった。つまり、外交で避けることができたにも関わらず、結局戦争になってしまったのはなぜなのだろうかということだ。個人ひとりがどんなに卓越した見識を持っていても、時代や社会は変わらないということなのだろう。

 清沢はアメリカを論じながら、同時に日本を論じていたのだと思う。清沢が論じていた様々な日本の問題は今なお問題のままになっている。そして、1945年の太平洋戦争の終結から、21世紀の今、清沢が見続けてきたアメリカは大きく変わった。しかし、清沢のアメリカへの見方、考え方は今後ますます必要とされるであろう。自分もまた、清沢洌という人が、戦前のあの時代にいたということを心の励みとしたい。

August 13, 2004

夏コミのおしらせ

夏コミのおしらせです。押井守メーリングリストが3日目の8月15日(日)の東S30a「押井守ML」にて出店し、同人誌の販売を行います。最新号の「犬からの手紙 第6号」はイノセンス特集です。僕も「パトレイバー2」の評論を寄稿しています。

えーと、今年はおそらくゴスロリの子が多いのではないかと思います。(なにが)(^_^;)

コミックマーケット66
日時:04年 8月13日(金)~15日(日)
場所:東京ビッグサイト

今週のTIMEとNewsweekその2

 今週どころか先週のTIMEとNewsweekになってしまった。前回、毎週、その週のTIMEとNewsweekを読んでその内容を書きます、と書いて、先週はそのままになってしまった。それはイカン。というわけで、August 9のTIMEとNewsweekをざっと目を通した次第である。

 で、まずTIMEの方、Cover Storyはアジアの道路事情について。とにかく悪い。どのくらいの悪いのか。記事を良く読んでいないのでわかりません。(^_^;)とにかく悪いんだなということはわかる。でまあ、TIMEの方は、あまりおもしろくなさそうなのですっとばして、Newsweekの方について。

 NewsweekのCover Storyは"お金と脳"について。自由経済学者は、経済行動を合理的な判断に基づいて行っていると考えているが、その考え方は間違っているという。いや、あたしはそんな合理的判断で買い物をしていないわよという人は多いだろう。僕だってそうだ。例えばこの前、マンガの『ミステリー民俗学者八雲樹』のコミックス14巻をばあーんと大人買いしてしまい、さらに、つのだじろうの懐かしい『恐怖新聞』の続編の『恐怖新聞2』のコミックス全6巻を一度で買ってしまった。なんか、毎月の給料のそうとうな額をマンガとかDVDとかに使っているような気がする。こんなことは、合理的判断ではできない。(できないときっぱり言うところがすごい)

 つまり、人は購買行動において、必ずしも合理的判断で行動しているわけではない。しかしながら、ミクロ経済学では、人は合理的判断で購買行動を行うということになっている。この「となっている」ことをサルでの実験によって、そうではないことを立証したというのがNewsweekの記事なのである。が、これもなんかつまらないのですっとばすことにする。

 当然のことながら、今週も大統領選挙の記事が載っている。ここで浮動票のことを英語で"the undecided vote"ということを知った(読んで字の如しだな)。選挙というものは、ほぼ自分に入れてくれることに間違いない(そのために相手の利益になるものを提供している)という固定票と、誰に票を入れるのかわからない浮動票というものがある。浮動票の有権者にも、相手の利益になるものを与えて固定票にしちゃえばいいではないかと思うかもしれないが、この「相手の利益になるもの」がなんであるのか特定できないのが浮動票である。別に特定の利害関係を持った集団でも団体でもない一般の人々のことだ。中産階級の人々であり、特に働く女性や家庭の主婦たちのことである。これらの人々をいかに自分に投票するようにさせるかが選挙戦で重要なんだと今週のNewsweekの記事は書いている。

 この"the undecided vote"の層に対して、なにが有効なのか。まずは家庭なんだということで、良き夫であり良き妻であるイメージを演出する。それから、税金と健康保険の課題にいかに取り組むかであるとNewsweekは書いている。さらに僕がつけくわえると、仕事と年金と教育も大きな課題になる。これらは、いつの大統領選挙の時でも焦点になる課題であり、つまりは極めて国内的問題なのである。

 ちなみに、話が少しずれるが、その昔、僕はできればグリーンカードでも取得して、アメリカの市民権を取りたいと思っていた時期がある。しかし、今そう思っているかというと、まったくそう思っていない。むしろ、アメリカに移住したい、アメリカの市民権を取りたいという人を見ると、「正気か?」と思ってしまう。なぜそう思うようになったのか。それは、アメリカの国内問題の深刻さは日本の比ではないことを知ったからだ。もちろん、日本だっていいというわけではない。しかし、アメリカの税制、健康保険制度、公立教育、年金制度の諸問題は、日本のそれらよりはるかに深刻であり、とても日本国籍を捨ててまでアメリカに住みたいとはまったく思わない。ここでくわしくは論じないが、本当にものすごく悪いのだ。銃の問題ひとつをとってみても、日本の方がいいに決まっているではないか。

 こうしたアメリカの国内問題は、日本にいて知ることがなかなかできない。日本でメディアを通して見るアメリカは、いわば「外向け」の顔であって、これが真実ではない。TIMEやNewsweekでさえ(つーか、これがそもそも)「外向け」の顔のメディアであって、これらを通して見るアメリカは偏ったアメリカである。少なくとも、アメリカの大衆の姿はわからない。ただまあ、その「外向け」の代表のNewsweekでも、たまにこうしてちらっとだけ「内向け」の記事を載せるんですね。紙面は多くないけど。

 さて、もうひとつおもしろかった記事は、イラクのアブグレイブ刑務所でイラク人捕虜を虐待した問題で調査委員会が現在調査中だという記事だ。

 調査リーダーのJams Schlesingerという人は、独立した"mulish"の人だという。"mulish"は辞書で見ると「(ラバのように)強情な」とある。なんかすごくバリバリの強面の人のようだ。ラムズフェルドがなんと言おうと、とにかく徹底的に調査したるで、悪事をあばいたるで、それでラムズフェルドはんに不利な結果なろうとも事実は事実なんや(なにゆえ、関西弁?)という人のようだ。これはおもしろい。イラク人捕虜への尋問マニュアルには、ジュネーブ条約による捕虜の保護の観点はまったくなかったという。(ただし、イラク人捕虜がジュネーブ条約による「捕虜」になるのかどうかという議論はある。)とにかく、イラク人捕虜虐待問題について徹底的に事実を追及するかまえのようだ。これがまあ、結局もみ消されるのか、それとも事実が明るみに出るのか。

 ラムズフェルドって、顔見ていると、なんかこー、グーでパンチ食らわしてやりたいと思うヤツなのだが、なにしろアメリカ合衆国の国防長官である。しかし、Schlesinger氏だって(ラバのように)強情な人なのだ。ラムズフェルドが政治的圧力をかけてきたら、パチキかましたれ!

August 11, 2004

『ディ・アフター・トゥモロー』を見ました

 少し前に公開された映画『ディ・アフター・トゥモロー』を見た。映画館で予告編を見て、これっておもしろいかもと思ったのだが、だからといって格別に見る気にもならず、公開されても見に行くことはなかった。しかし、まだ公開していたんですね。もう終わったのかと思っていた。

 なぜ、それほど見る気にならなかったのか。以前、『コア』という映画を見て、そのあまりにも非科学的な内容になんか打ちのめされた気分になってしまって、以来この手の映画は避けようと思ったからだ。『コア』は悪い映画ではないのだが、やはりどーもあのマントルを人工的にどうこうしようというのは、もはや地球つーもんをバカにしているとしか言いようがないではないか。大体、アース・サイエンスというものはもっと地味なもんだ。

 僕は、地球の自然を相手にしたアース・サイエンスにすごく興味がある。NYで一番幸福感につつまれる場所は自然史博物館だし、もしもう一度人生をやりなおせるのならば、今度こそアメリカで気象学か古生物学で学位を取ろうと思っている。今でこそ私は、社会学だ歴史学だ民俗学だ宗教学だとか言っているが、心のどこかではそうした人間の作った歴史や文物を相手にするよりも、人がいない自然を相手にした人生を送りたいという気持ちがある。空や風や大地や海を見ながら(実際は数値化されたデータを見るわけであるが)日々を送れたら、どんなにいいだろう。実際のところ、インターネットで、アメリカの大学の通信教育で気象学を学ぶことができるのでぜひとも学びたいと思っている。

 さて、『コア』は、これはちょっと問題アリだろうという内容だった。映画なんだからいいだろうと言うかもしれないが、それでも許容できる範囲つーもんがある。ただし、この許容範囲は一定しておらず、作品のストーリィによって変わる。例えば、同じジャンルの作品で『ツイスター』とか『ボルケーノ』とかは、うーんこういうのあってもいいかなという内容であった、映画なんだし。細かいこと言わなくていいじゃん。

 しかし、である。映画であったとしても、『コア』は簡単にうなずける程度の内容ではなかった。このへん、私の中にアース・サイエンスはかくあるべきというモノがあって、それが、こーゆー映画もオッケーとは言わせないんですね。まっ『コア』って、悪い作品じゃなかったんだけど。

 で、それでは『ディ・アフター・トゥモロー』はどうか。見る前は、どーせ『コア』みたいな、およそあり得ない設定なんだろ、と思っていた。それでもとにかく、LAが巨大竜巻によって崩壊する光景や、NYが氷原になる光景などは、この映画なくては見れないだろう。これはDVDで見るよりも映画館の巨大スクリーンで見たい。というわけで見に行ったのだ。

 見てみると、期待通りの「映画でなくては見れない」映像シーンが満載でこれはおもしろかった。こうした自然現象をCGで描く場合、例えば、当然のことながら、雲なら雲が実際の自然現象における雲の動きのように描かなくてはならない。このプログラムは、そう簡単にできるものではない。このノウハウだけで十分ビジネスになる。気象現象をシュミレートするCGは、研究機関よりもハリウッドの方が進んでいるのはないか。この監督は『ID4』でも『GODZILLA』でも、とにかくたくさんの名もなき人々が出てきて、とにかくたくさんの名もなき人々がどんどん死んでいく。この作品でも、自然の猛威の前になすすべもなく死んでいく人間たちの姿を淡々と映す。

 科学的内容どうだったのかというと、そりゃあまあ映画なんだから細かいことは言わないもんだということにして(『コア』の時と違う!)。東京のシーンも、ハリウッドの日本理解なんてこんなもんであることは、もう永久に変わらないんだなというわけで。実は、この作品は自然災害ものというよりも、政治映画なんだなということに見ていて気がついた。

 まず、最初のシーンで、地球温暖化による気温の低下(ここの論理が科学的に正しいのかという気がしないでもないけど、まっ映画なんだからいいじゃないか)を危惧する主人公の気象学者に向かって、経済的観点から温暖化防止なんてできないと主張するアメリカの副大統領の顔がチェイニー副大統領になんとなく似ている。

 でまあ、このチェイニー副大統領、じゃなかったベッカーという名前の副大統領は、この後も主人公の指摘をことごとく無視し、学者の意見など聞いてはおられんというような態度しまくりなのだ。で、大統領の方はなんとなくアルバート・ゴアが歳をとったらこういう顔になるのではないかという顔の人で、こっちの人はそれなりに話しが通る。結局、政府の対策の遅れによりアメリカ合衆国の北部の人々はもはや助からない状況となる。南部のアメリカ人は難民となってメキシコ国境を越えようとするが、メキシコ側は国境を閉鎖する。そこでアメリカ「難民」たちは、違法にリオ・グランデ河を超えてメキシコへ流入しようとする。このへん、現実の姿と逆だ。アメリカだって自分が困ればこういうことするじゃないかと言っているようでおもしろい。最後は、急死した大統領に代わって大統領になった(チェイニーによく似た)ベッカー副大統領が、途上国に対していかにアメリカが今まで傲岸だったかと改心するシーンで終わる。

 監督のエメリッヒは、とにかく今の共和党政権がキライなんだろう。そりゃそうだよなあ。

August 10, 2004

マナーとしての反日を身につけて欲しい

 というわけで、アジア・カップでの日中の決勝戦が終わった。試合の後で、中国人観客数千人がスタジアム前に集まって日本の国旗を焼いたり、日本公使の車の窓ガラスが割られたりすることがあったという。

 戦前ならば、これだけでも在日邦人の安全を守るために、日本陸軍が兵を送る騒ぎになったであろう。事実、1932年の上海事変は、日本人僧侶が中国の反日団体から暴行され殺害されたために軍が行動を起こした出来事だった。ちなみに現在では、この日本人殺害事件の背後に日本軍部側の陰謀があったことがわかっている。

 例えば、だ。戦前ならばこうなったであろう。この試合のさなかに、日本陸軍の特務機関が中国人サポーターをあおり立て、暴動を起こし、日本人の何人かに怪我を負わせる。これで日本は中国に対する軍事行動の大義名分を得る。で、さらに言うと、日本の議会が例えば2個大隊を送る決定をしても、参謀本部はそんな決定には従わず、なんだかんだ言って3個師団ぐらい送ってしまう。で、送った後で、参謀総長と陸軍大臣が皇居に参内して、天皇に兵を送りましたと奏上する。天皇は苦々しくそれを承認する、と、こんな筋書きになるであろう。あの時代はそうした時代だった。

 しかしながら、21世紀のこの時代では、この程度のことで戦争をおっぱじめるわけにはいかない。なんでか。この世界は、中国と日本の2国だけがあるわけではなく「その他の国々」もあるからである。さらに、日本の対中投資は莫大な額であり、中国の経済成長が日本経済の回復に大きく役立っている。経済では、日本と中国はもはや「ひとつの経済圏」と呼んでもいい関係になりつつある。

 今や、そう簡単に戦争ができない時代になった。この「そう簡単に戦争はできない時代になった」が故に、双方の国の大衆感情ではよりいっそうのイラダチがあるのかもしれない。グローバリゼーションは大衆の感情に不安を与える。その不安が反動としてのナショナリズムを生み出す。

 今回のアジア・カップでの中国の反日ブーイングの姿は、情報ネットワークによって世界の隅々まで流れた。特に、これを見てどう思ったが聞いてみたいのが中国の隣の韓国である。道理のない反日感情がいかに醜いものであるか、これでよくわかったのではないだろうか。また、台湾の陳水扁総統は「負けたからといって日本国旗を焼き、日本公使の車を壊す。審判を責める。どれも民主的な風格に欠け、まったく残念だ」と語ったという。シンガポールやマレーシアやベトナムやビルマ(現ミャンマー)やインドといった旧大日本帝国の植民地の国々の人々はどう思ったのだろうか。

 もちろん、本当に反日運動をしなくてはならないこともあるだろう。日帝への恨みはらさでおくべきかという気持ちもあるだろう。日本はとにかくキライだという人もいるだろう。それはそれでいい。しかし、反日の心情を表明する時と場は心得えなくてはならない。なにがそうで、なにがそうでないかという分別をつけることができなくてはならない。その分別をつけることができないのが、今回のアジア・カップでの反日ブーイングのみなさんであった。あの人々はアジアの反面大衆(というコトバはないな)であり、ああなってはいけないなということを教えてくれたのである。

 西部邁は「マナーとしての反米」と言っているが、その言葉に従うのならば「マナーとしての反日」があったっていい。中国のみなさんは(ちなみに、韓国・朝鮮のみなさんも)、ぜひともマナーとしての反日を身につけて欲しい。

 気になるのは、中国政府は大衆を管理する力を失いつつあるということだ。市場経済路線をひた走る中国は、このままでは共産党による単独政権支配は成り立たなくなるだろう。しかし、かといって政党政治がすぐにできるとも思えない。この巨大なアジアの専政国家が今後さらなる経済成長の末にどうなるのか注目したい。社会混乱や内戦にでもなった場合、日本への影響は少なくない。自由市場主義経済を知り、反日運動といううっぷんばらしを持つ今日の中国大衆は、中国共産党だけではなく、今後日本も含めたアジア諸国にとって巨大な火薬庫になりつつある。

 いっそのこと、年に一回、大アジアブーイング大会なるものを催すのはどうだろうか。そこでは身体への物理的接触、危険行為は違反とし、あとは言葉でどれだけ罵詈雑言を言おうが、パフォーマンスでなにをやろうが良しとする。日本と中国と韓国・朝鮮その他の国の互いに文句のある人々を集めて、夜通しブーイング大会をやるのだ。アジアでのブーイングといえは反日だけではない。台湾は大陸中国へブーイングするだろうし、ベトナムもそう。チベットなんか中国に対して、いくら恨んでも恨み切れないものがあるだろう。そう考えると、日本への反日ブーイングよりも中国への反中ブーイングの方が大きいかもしれない。

 もはや、かつてのように戦争はできないのだから、ここはひとつお互いが相手をどう思っているかホンネで言い合おうではないか。そして、ホンネを実行するわけにはいかない政治や軍事や外交の現実、不条理さ、バカバカしさをお互いに味わおう。言い合えば、お互いがお互いをわかりあうかもしれないし、相変わらずそれでも反日、反中、反韓国・朝鮮の気持ちは変わらないかもしれない。それでいい。とどのつまり、民族的自尊心というものはそれほど高尚なものではないということだ。どこかホンネで言い合える部分がなくては、人と人の間にも、国家と国家の間にも信頼は成り立たない。

 ただまあ、こーゆーことやる政治家はいないだろうけど。
 やってくれないかなあ、どっかのNGOが。

August 06, 2004

唯一の被爆国であるということは何の意味もない

 59回目の8月6日になった。人類史で初めて戦争で原爆が使用された日である。しかし考えてみると、このいわゆる「原爆の日」というものが戦後半世紀の歴史の中でいかなる意味を持っていたのかよくわからない。

 「世界から核兵器の廃絶を願う」というが、これはあくまでも「願い」であって、これを本気で政策にしたり、国是としようとするというのならば、それはあまりにも非現実的であろう。広島は、この半世紀間ひたすらこの「願い」をしてきたわけであるが、そろそろもっと現実的な活動の場として広島(そして長崎)を捉える時期にきているのではないか。このままだと、ますます広島(と長崎)は、世の中の流れからどんどん取り残されていくであろう。戦争は悲惨だ、原爆は悲惨だ、と言っているだけで戦争がなくなるわけではないことに、だんだん人々は気がつき始めている。「原爆の日」とは、極めて国内的な、かつ宗教的な儀式としての鎮魂と平和への祈りの日であるだけであって、国際的にはなんのアピールももたらしていない。

 日本は「唯一の被爆国」だという。しかし今の時代で、「唯一の被爆国」であるということだけでなんの意味があるのだろうか。「被爆国」という言葉の意味は、被爆した体験を持つ人々がいる国という意味であるのならば、今の日本には被爆の体験者の数はほんのわずかであって、少なくとも、近い将来には完全に被爆体験者はいなくなる。つまり、日本は被爆体験国ではもうなくなりつつあると言えるだろう。

 で、あるのに、いまだに日本は「唯一の被爆国」だから云々と言っているのはおかしい。あるいは、仮に今でも日本は「唯一の被爆国」であるとしよう。それでは「唯一の被爆国」であるということが、国際社会で今日までいかなる意味を持ってきたのか教えて欲しい。「日本は唯一の被爆国なんだから、日本の言っていることは正しい」とか「さすが、唯一の被爆国の言うことは違いますなあ、まったくその通りです」とか外国から言われたことがあるのだろうか。

 もしくは、これまで日本は、唯一の被爆国であるということを堂々と正面に出して、国際社会に問題を提起するとか、唯一の被爆国であるのだからアメリカのイラク戦争に反対するとかいったことを行ったことがあっただろうか。

 つまり、「唯一の被爆国」であるということは、世界の中でなんの説得力も持たないのだ。原爆の被爆を受けたという歴史的事実に対して、半世紀たった今でも日本人は被害者意識のレベルから脱していない。あるいは、核兵器の被害は悲惨だ、広島、長崎を見よ、だから世界の核兵器廃絶を求めるという荒唐無稽なファンタジーしか考えられない。イタイ系かセカイ系しかないんですね。これでは、どこの国も相手にしてくれないだろう。

 その意味で、日本と北朝鮮は、まるで鏡に映った正反対の姿のようによく似ている。核兵器の攻撃を受けたということだけで、世界に核兵器廃絶を求め、かつ、それが本気でできるもんだと信じている(さすがに、最近はそんなことを信じないようになってきたが)国と、核兵器を持つことだけで、相手にこちらの言うことをきかせることができるのだという根拠のない確信を持っている国。どちらも、ジコチューであるだけで、外国という他者を認識していない。

August 05, 2004

あーまた中国のみなさんが騒いでいるな

 中国で開催しているサッカー・アジアカップで中国人観客が露骨な反日感情を表しているという。中国政府はこれまで、広大な国内の統一を図るために反日という社会感情を政治的に利用してきた。ところが、北京オリンピックを前にして、スポーツの試合で国民があまりも反日で騒ぐのは国際的イメージダウンになるという事態に直面した。

 この反日ブーイングを中国政府がどう対応するか見物だな。

 日本側としては、このことで「中国はケシカラン!!」と怒ることもないと思う。あーまた中国のみなさんが騒いでいるなと思っていりゃいいんだと思う。一番困るのは、中国側のブーイングは、日本が過去の中国侵略に対して謝罪していないからであるとか、小泉首相の靖国参拝の影響があるとかいう話に持っていこうとする人々が日本国内にいるということだ。全然、そんな話じゃないよ。

 公明党の神崎代表は、小泉首相の靖国参拝が悪いと述べている。じゃあ、あんた、なんで自民党の隣に座っているのか。こーゆーところが、この党の好きではないところだ。そして、いかにも、こういう意見がありますといった感じでこうやって記事に載せる朝日新聞ってのは、つくづくこーゆー新聞なんだなと思う。

August 02, 2004

The 9/11 Commission Reportを読む

 今日、新宿の紀伊国屋で本の"The 9/11 Commission Report"を買ってきた。ネットでPDFファイルで入手することができるのだけど、歴史的な資料でもあるので紙の本でも持っていたいなと思い買った。それに、PDFでパソコンの画面で読むのはラクではない。

 この報告はかなり分厚く、とても全部読む気になれん。そこで、NewsWeek(August 2,2004)のFareed Zakariaの"The 9/11 Commission Report"についての記事について書いてみたい。Fareed ZakariaはNewsWeek国際版の編集者で、国内版のレギュラー・コラムリストである。ABCNewsの解説者であり、Ted KoppelのNightlineに出ているのを見たことがある。日本で定期購読をするのは国際版の方になるが、こっちでもひんぱんにこの人のコラムが載る。今のブッシュ政権は間違っていると真っ正面から書くことはないが、内容はまっとうなことを言っている。政治的立場は、当然のことながらリベラルでグローバリゼーションを良しとする立場だ。アメリカのイラク侵略はフセイン政権を倒すために仕方がないことであり、今アメリカがイラクから手を引くとイラクの再建は不可能なので、アメリカのイラク統治も認めるということをNewsWeekのコラムで書いている。

 "The 9/11 Commission Report"についての記事で、彼はこの報告書は、超党派の独立した調査委員会の非常に優れた報告書であると書いている。ユニークな鳥瞰的味方で。政府のハイレベルの政策決定のプロセスを分析している。マスコミは、この報告書の指摘にあるa new intelligence czarやnew systems for congressional oversight of intelligenceなどについて注目しているが、そうしたことは重要ではない。the big pictureが大切である。a grand strategyに着目することが必要なのだとZakariaは書く。

 では、そのa grand strategyとはなにか。それは、この分厚い報告書の中の最後の二つの章、"What To Do? A Global Strategy""How To Do It? A Different way of Organizing The Government"に書かれている。

 この報告書は、アメリカの政治の良心と知性が表れていると僕も思う。この報告書は、大変重要だと思う。もともと、アメリカの外交には、一国覇権主義(あるいはその反動の孤立主義)の考え方と、他の国との協調を重視する国際主義の考え方という二つの異なる考え方が底流にある。その後者の勢力がようやく表に現れてきた感じだ。イラク戦争が始まる前に、ここまで見事な洞察があればイラク戦争は違った姿になったであろう。この戦争は、大統領府とペンタゴンが強引に国をひっぱり、議会がそれに引きずられた戦争だった。もちろん、大統領にイラクへの軍事行動の権限を与えたのは議会である。その意味で、議会も軍事行動に同意した。マスコミもそうだったし、なによりも国民がそうだった。

 しかしながら、この報告書が述べるところによると、テロとの戦いは長期間にわたる。ただイラクに軍隊を送り、サダム・フセイン政権を倒すだけではことはすまない。ブッシュ政権は、戦争をすることについては卓越した計画を持っていたが、戦後の統治についてはまったく計画がなかった。報告書は「アメリカは世界の規範のリーダーになるべきであり、人道的に人々を扱い、法律を守り、隣国に寛大で思いやりを持つべきである。」と述べている。このへん、ウイリアム・クリストルやロバート・ケイガンといった現政権のイデオローグたちの意見とは異なる。この報告書ははっきりと、アメリカ国家の安全保障はグローバルな国際協力を必要とすると主張している。一国による覇権主義ではなく、多国主義でなくてはならないと強調している。ようするに、この報告書は、今のブッシュ政権ではテロへの安全対策になっていないと言っているのだ。

 テロとの戦いは、冷戦時代とは異なる新しい戦略を必要とする。ブッシュとその政権のイデオローグたちが言っていることは、一見、新しい時代に対応した新しい戦略のように見えるが、実体は軍事力で(しかも、アメリカ一国の判断で)相手を叩くという冷戦時代と変わらないやり方だ。

 誰が次の大統領になるにせよ、アメリカのテロとの戦いは始まったばかりである。(今さら、わかりきったことかもしれないが)どうやらこの「テロにどう対応するか」が、これからのアメリカと世界の行方を決定することになるようだ。初戦は、ブッシュ政権の一国覇権主義者が主導権を握った。しかし、これから国際主義派の抵抗が始まる。かつて、ジョージ・ケナンやディーン・アチソンらが提唱した反共政策の基礎理論に匹敵するような、最も効果的だと思われる対テロリズム政策はまだ生まれていない。今のアフガニスタンとイラクの現状を見るだけでも、共和党の政策ではもはや話にならないことは明白である。では、どうなるのか。

 アメリカという国は、今ものすごく危機的な状況にある。今のアメリカは内国的で、愛国心だなんだと言っていること自体が、本当の目の前にある危機に目を向けることなく、国全体が退行しているのだ。そうとうヤバくなっているので、星条旗とキリスト教の神にしがみついているだけだ。冷戦が終わって、アメリカはいわばアイデンティティの喪失に陥ってしまった。その心の空白に入り込んできたのが保守主義とキリスト教右派だった。言ってみれば、アメリカはアメリカという殻の中にひきこもっているわけですね。ブッシュ政権はヒッキーであったのだ。しかしながら、ようやく、この新しい時代での新しいアメリカの姿を模索しようという動きがでてきた。この不健全で不健康な状態を改善しようという動きがでてきた。僕は、この回復力こそ、アメリカの最も優れたものだと思う。

 この"The 9/11 Commission Report"は、その最初の第一歩なんだと思う。

August 01, 2004

今週のTIMEとNewsweek

 TIMEとNewsweekを定期購読しているが、ろくに読みもしないので、あっという間に溜まってしまう。その昔、大学生だった頃、見栄で定期購読していたが、あの当時の僕の語学力でわかるはずもなく、読みもしないで溜まる一方だった。これではカネを捨てているようなものなので、購読の更新の支払いをやめたら、当然のことであるが送ってこなくなった。読みもしなかったTIMEとNewsweekの山は、残しておけば将来なにか貴重な資料になるのではないかと思って、しばらくそのままにしておいたが、ある日、その山があまりにうっとうしくなり、もーこの先絶対手にとることはないであろうと思い、古新聞と一緒に捨ててしまった。

 社会人になって10年ぐらいがたち、それなりに英語が読めるようになったので、ここはさらに勉強のためにもTIMEとNewsweekは読まなくてイカンなと思ったのは1年ぐらい前のことだ。ちなみに、TIMEもNewsweekもリベラルでグローバリゼーション至上主義の雑誌になる。国際時事を扱っていると言っても、Foreign Affairsのような外交専門誌ではないし、NewYork Timesのように記事やコラムを読んで深く考えるようなことはない。大学生の頃は、TIMEとNewsweekを読むなんて、なんかすごく英語がバキバキにできる国際人というイメージがあったが、読めるようになってみるとなんのことはない、ごくフツーのアメリカの写真報道週刊誌であり、それ以上、それ以下のものではないということを学校を出た後で知った。TIMEとNewsweek、さらにUS News and World Reportの3誌は世界の主要都市各地で売っていて入手できる。ワールドワイドに有名な世界三大英語週刊誌である。Newsweekは日本語版もあるので読んでみればわかると思うが、そうたいしたことが書いてあるわけではない。読んでも、あっそうなのふーんと思うぐらいの内容で、本気でアメリカの政治や国際関係論を勉強したいという人は、この程度の雑誌を読むだけで終わりにしてはいけない。

 ただ、しかしまあ、そこは週刊誌なんだからというわけで、そうしたことを踏まえた上でTIMEとNewsweekに目を通すことは必要だろうと思う。ところが、そう思って定期購読をしているのだが、なかなか目を通す時間がとれない。

 そこで、なるべくこのブログで毎週、「今週のTIMEとNewsweekにはこういうことが載っていた」ということを書くようにしようと思う。もともと、この「深夜のNews」は、夜中にビールでも片手にして新聞をめくり、世の出来事についてざっくばらんにしゃべるようなことを文章にしたいという気持ちで始めたものだ(とてもそんな気楽な内容にはなっていないのがナンであるが)。その対象をTIMEとかNewsweekとかに広げてもいいと思う。つーか、こういうことでもしない限り、なかなか自分で時間を作ってTIMEとNewsweekに目を通すなんてことはしない。これでは、また学生の頃のように、定期購読のカネを払って、読みもしないでただ溜まる一方になってしまう。こーやって、半強制的に毎週TIMEとNewsweekを読まなくてはならないという状況を作らないと、私は英語雑誌を読むよりも、例えばアエラとか買ってきて読んで、それでこのブログに「相変わらず朝日新聞はわけがわからない」とか書いて本日のブログを終わりにするであろう。

 つーわけで、今週のTIMEとNewsweekであるが、今週はTIMEはお休みで、Newsweek(August 2,2004)のみとなる。今週のNewsweekのCover StoryはAppleのiPod miniの話で、表紙にはiPodを持ったSteve Jobsが載っている。当然ながらマックユーザーの僕は(ただし、物書き仕事はThinkPadを使っている)、初代iPodが出たときからiPodで音楽を聴いているので、いまさらiPodの良さを言われてもねえ。今は、僕は40GBのiPodに、自分の持っているほとんどすべての音楽CDを入れている。これだけ大量の曲を持ち歩いていると、例えば電車に乗って、さあ、音楽を聴くぞ、何聴こうかなクルクルとホイールを回して迷っているうちに降りる駅に着いてしまう。こーなると、ただ容量がデカければいいってもんじゃないなと思う。

 Fareed Zakariが"the 9.11 Commission Report"について書いている。この"the 9.11 Commission Report"については明日くわしく書きたい。

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