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June 15, 2004

大人たちは、この事件のことをすぐに忘れるだろう

 精神鑑定というものが、僕は好きではない。つーか、カウンセリングとか心理学そのものが、どーも好きではない。実は、大学時代、僕は心理学をそれなりにかじったことがある。しかし、学んでみると、これでは心や精神はわからないだろうと思った。実際、心理学でも人の心はわからんが前提になっている。「わからない」から「コレコレの方法でわかるようにしましょう」というのが心理学なのである。しかし、だからこそ「コレコレの方法で」こうわかりましたと言っても、それは「コレコレの方法で」という話で、実際のところがわかるとは心理学は言っていないのである。あくまでも、学問的にはこうなるとだけしか言っていない。それ以上、言えるわけがないのである。じゃ、なんで心理学があるのか。そのへん、心理学が好きな人がいるからとしか言えないのではないか。

 もうひとつの観点として、この社会は合理的な意味付けを求めるということがある。心理学のなんかよくわからんが、とにかく理論的に説明ができるというところが現代社会にはウケルのである。だからこそ、カウンセリングは確固とした職業になる。道教や陰陽道とかでは、深夜の街頭の占いにしかならない。なぜ、合理的な説明が必要なのか。それは、合理的であれば人間が管理し操作することができるからである。現代社会では、予測し得ないことが起こってはいけないということになっている。人の心や行動も予測可能でなくてはならない。予測できなれば管理ができないからである。

 今回の長崎佐世保の事件は、小学生が同じクラスの子を殺害するという、予測できないことの最たるものであった。この加害者はなんかわけのわからない特別な子だった、で終わりというわけにはいかないらしい。なにがなんでも合理的な理由が欲しいようだ。

 昔、奈良県の奥吉野にあるとある村へ旅したことがある。そこで聞いた話であるが、ある日、渓流にかかっている橋の上を子供たちが歩いていた。その風景を写真に撮った人がいて、その写真ができたので見てみると、その写真には、その子供たちと共に弘法大師の姿が映っていたという。この村のあたりは、千年前に空海が若い頃に修行した山河である。村の人は、その橋のたもとに祠を置き、御大師様を祀ったという。それで終わり。それだけの話だ。それにしても、現存する空海の肖像画は、あくまでも「肖像画」、それも大昔のものであって、誰も本当の空海の顔や姿は知らないのだが、なにゆえ村の人々には、その写真に写っているのが空海だとわかったのであろうか。そのへんはナンであるが、つまり、その村の人々にとって、写真にナニモノカが映っても不思議でも何でもないのだ。川に魚が住み、空を鳥が飛ぶように。そうしたものがあることは当然中の当然のことなのである。そーゆーことがこの世の中にはある、ということがその村では常識になっているのである。「怖い」とか「怖くない」とか、「不思議」とか、「不思議じゃない」とかいうのでなく、ただ淡々とそうしたことがあったという感覚なのだ。

 神秘というものに対する感覚が、彼らと僕たちとでは異なっているのである。都会では、こうはならないだろう。写真にナニモノカが写っていたとなると、大騒ぎになるか、怪談になるか、あるいは、これはコレコレの理由のよる、コレコレの現象でしたということになるだろう。僕たち都会人が、「科学的な理由づけができないもの」を恐れるのは、この世は合理的に理由付けができるという近代世界観を持っているからだ。僕たちは、神秘に対して、恐怖を感じるか、あるいは科学的説明で納得するかのどちらかしかない。近代以前の社会では、人に理解できないことが起きた場合は人々は神や仏に祈った。神社や寺への奉納や寄進をしたり、祭りを行ったりして、共同体の動揺を鎮めようとした。彼らは「意味付け」をしないわけではない。彼らもまた、彼らの世界観の中で「意味付け」を行っていた。その意味で、彼らもまた合理的解釈をしていたのである。その「意味付け」の意味の体系が、近代以前と以後では大きく変わったのだ。

 長崎佐世保の事件の加害者の精神鑑定を行うという。この加害者のホームページの文章がどうの、絵がどうのと、マスコミは(一見)合理的な説明をしているが、どーも、後になっての理由付けである。しかし、世の人々にとっては、後になっての理由付けでもいいから、とにかく(一見)合理的な説明が欲しいのだろう。それがないと「怖い」のである。(一見)合理的な説明があれば、ああそうだったのかと安心するのだ。現代人にとって、マスコミとはそれこそセラピーみたいなものなのだろう。

 しかし、では、この被害者の女の子はなぜ死ななくはならなかったのかということに対する答えが、これで出るとは思えない。そもそも、心理学も精神医学もそうしたことに答えるものではないのだ。それでは、なにがこの問いに答えられるのか。

 ここで、宗教というものが出てくるが、かといって、今の形骸した宗教では、子供の心にとどくことはない。

 この事件の後のことを僕は思う。どうせ大人たちは、この事件のことをすぐに忘れるだろう。しかし、子供たちはこの事件をいつまでも覚えていると思う。子供たちは、この事件にどのような意味付けを与えるだろうか。この加害者と被害者の2人は、子供たちの伝説の中に残るのではないかと思う。学校の怪談のようなものになるだろうか、それとも、ネットの中の怪談になるだろうか。それは今はわからない。

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