藤原先生のような教師がいてほしい
6月4日の記事(「記事」という用語はなんとかならないものか)に、トラックバックがあったことに気がつきました。なるほど、トラックバックってこうして使うのか。
トラックバックの「日々適当なblog」での小6殺人事件についての記述、今回の事件はネットが悪いわけでもテレビが悪いわけでもない、「命の大切さ」と言ったところでどうにかなるわけでもないという意見に僕も賛成したい。この加害者の子は、いわば渡るはずのない向こう側に渡ってしまった子なのだと僕は思う。では、なぜこの子は向こう側に渡ったのか。
この「日々適当なblog」が紹介していたブログ「魂理学入門」を読んでみた。カウンセリングを職業にしている人で、小学校のスクールカウンセリングもやっていたという。「「命の尊さを説く」などという毎度の寝惚けた戯言では根本的解決は無理である。」という記述に、そうだろうなあと僕も思う。「命の大切さの教育が必要だ」というのは現場を知らん人のセリフなのだろう。相も変わらず「命の大切さの教育が必要だ」とかいった精神論を言っているのは、竹槍でB29をつつけといっているのと同じだという指摘にはまったく同意する。
教師は加害者の子の心理状態を把握できなかったのかという記述があるが、これについては僕は教師は魂を扱う技術を持った人でないと思うので同意はできない。またカウンセラーを学校に配備することもいくつかの疑問を感じる。私の意見は、前にも書いたが、そもそも学校を圧迫している管理教育・受験体制の撤廃である。押しつけているものがなくなれば、自然と良い方向へ向かうだろうという楽観的な見方をしている。しかし、今の世の中で管理教育・受験体制の撤廃が果たして可能かというと、そうではないこともわかる。であるのならば、カウンセリングの導入も必要なのかもしれないとも思う。
話は少し変わるが、僕はいしいひさいちのマンガ「ののちゃん」のファンである。この山田ののちゃんも小学生である。ののちゃんの担任の藤原先生がまたいい味を出している先生なのだ。藤原先生は別の作品では、小学校の教師をやめて作家になってしまうのだが、藤原先生はぜひともずっと小学校の教師を続けて欲しいと思う。
実際の小学校の現場の荒廃さを思うと、とてもではないが藤原先生のような教師はいないだろう。そのへんに今の教育の問題があるような気がしないでもない。
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