大人の都合のいいようにはならない
長崎県佐世保のカッターナイフ殺人事件について、さらに考える。報道によると、この子は殺害した後で、動かなくなったかどうか確認するために、その場に15分間留まっていたという。もうこうなると、この子はヘン。フツーじゃないと言っていいのではないだろうか。
今回の事件で「誰もがこうしたことをやる可能性がある」と言われているが、ここまで異常なこととなると、まず「誰もがこうしたことをやる可能性」はないと思うのが当然なのではないか。いくら今の小学生だといっても、そこまでおかしくないだろう。今回の事件は、特殊で特別な子供が起こした事件だったと思う。世間一般の小学生はこうしたことはしないと思っていいのではないか。
ネットでの記述に腹が立ったので、こうした事件を起こしたという見方があるが、これはもうそうした衝動的な殺人ではない。この加害者の子供の行動を見ると、「キレやすい」「何を考えているのか分からない」と言われる今の子供の心理とは違うなにか別のものを感じる。これほどの事件が起きたので、大人たちはどうしていいかわからず、ただ右往左往するばかりだ。大人から見ると、今の子供はストレスの塊で、命の大切さなどまったくわかっていない、いつ殺人者になるかもしれない者たちに見えるようだ。
子供の管理のしすぎでないだろうか。大人は、子供のすべてを理解できる、管理できると思っていないだろうか。むしろ、そうした考え方が子供を追い込んでいるのではないか。心の教育とか、命の大切さを教えると言っているが、それは具体的にどういうことなのかよくわからない。公立学校で宗教を教えるわけにはいかないだろう。学校教師とは、大学で教職課程の単位をとって教員採用試験に合格した人々であって、宗教者や導師ではない。教師は人格者であって欲しいとは思うが、人格者でなければならないというものでもない。もともと、近代の学校制度というものは、そうしたことができるようにできていない(し、する必要もなかった)。そこまで、現場の学校教師に負わせようというのだろうか。
ある意味で、子供とは管理し難い「自然」である。それをいかに管理するか。大人は、そうしたことばかり論じている。なぜか。この管理社会では、管理し難いものがあっては困るからである。しかし、困るといっても、子供は今の社会システムが登場するよりも、はるか以前の昔からこの世にあった自然である。心の教育よりも、今の教育の根本的問題になっている管理教育・受験体制そのものをやめようという声が出てこないのは不思議だ。小学校教育の根本的問題も大学受験にあるのは、誰でも知っているはずだ。いっそのこと、文部科学省そのものをなくそうという意見があったっていい。こんな事件が起きてしまったから、心の教育とやらいうものをお上が管理教育でやりましょうという発想自体がおかしい。
今の教育の姿では、現場の教師も生徒もますます精神をすり減らすだけである。管理教育・受験体制そのものは変えず、心の教育によって心の豊かな生徒を育てるなどという、そんな大人の都合のいいようには子供はならない。
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