恨みの無限ループ
もういい加減、この話題から離れようと思っているのだが、長崎の殺人事件について、これだけはどうしても書いておきたいということがある。この加害者の子は、小説『呪怨』を読んでいたという。『呪怨』は、いわば逆恨みで殺された女性の怨念が悪霊になって、人に祟りをなす物語である。
この加害者の子は、少なくとも殺害した時は、被害者の子をそうとう恨んでいたのだろうと思う。恨む理由が、この子の中ではあったのだろう。では、殺された側の子はどうだろうか。このへんよくわからないが、唐突に自分の人生を終わせられたことについての恨みがないだろうか。仮に、この被害者の子は恨んでいないとしても、この加害者の父親はどうだろうか。つまり、この加害者の子は他者を恨むことで、自分も恨みをかってしまったということになる。「恨む」という感情は、人間の心理の本質的なものでもあり、感情の中でも非常に強い情念になる。だからこそ、古来から「恨み」は、人間関係の大きなファクターであり、「恨み」を元にしてありとあらゆることを人はやってきた。
この事件のことを初めて知ったとき、僕の脳裏に浮かんだことは、この子は祟りを恐れないのだろうかということだ。タタリなんて、非科学的なことと思うかもしれないが、この子は他者を「恨む」ことで、他者から「恨まれる」という恨みの無限ループに入り込んでしまった。そこから起こる災いを、昔の人ならタタリと呼んだだろう。この子は、そのことに気がついているのだろうか。他人に向けた刃は、やがて自分に返ってくる。だからこそ、自分の魂を「正しい」方向へ向けるようにしていかなくてはならない。オカルトや心霊に興味や関心がある子なら、そのぐらいわかっていたはずだ。ところが、この子にはそれがわかっている様子が見られない。
こういうことを書くと、ほんともー、おかしなやつと思われるだろうけど、僕は小学校では霊魂や心霊について子供に教えることが必要だと思う。ラフカディオ・ハーンの小説「怪談」を朗読するだけでもいい。人の命を大切に思う心を持つのではなく、自然と生きとし生けるものの命に畏敬と恐れを抱く感情を持つことが必要なのだ。なにも大人になってまで、そうした感情をずーと持っていろとは思わない。子供の時はタタリとかがあって、オバケとかいると思っていたよ、で十分だ。しかし、子供の時にそうした感情を持っていたということは、大人になった時に大きな意味を持つと思う。
この加害者の子は、被害者の子を恨んでいた。それはわかる。そういうこともある。でも、その他者を恨む自分を見る、もうひとつ別の視線をこの子は持って欲しかった。教室のみんなをうざいんだと言っている自分を見る視線、自分をいじめるクラスメートを見る別の視線。教室という閉鎖された世界の中で、恨んだり、恨まれたりしている自分たちそのもの全員を、どこか別の所から見ている視線の存在を感じる子になって欲しかった。もちろん、一歩間違えれば、精神分裂になるか新興宗教になってしまうかもしれない、危うい心の旅なのだけど。その旅に出て欲しかった。
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