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June 2004

June 25, 2004

『パトレイバー2』と三島由紀夫

 先日読んだ「自衛隊は誰のものか」で三矢研究について知ったと書いたが、実は三矢研究以上の事実をその本で発見していた。それは、自衛隊のクーデター計画である。

 ここで突然『パトレイバー2』の話になる。この作品は、パトレイバーの初期OVAシリーズの中の「二課の一番長い日」がもとになっているとよく言われるが、この二つの作品の内容は別のものである。「二課の一番長い日」は、そのものズバリ、自衛隊がクーデターを起こす話であるが、『パトレイバー2』は、自衛隊がクーデターらしき状況を演出するテロ犯罪の話であった。監督の押井さんは、自衛隊がクーデターを起こすというウソっぱい話を、さすがに映画ではできなかったと述べている。この「虚構のクーデターを演出する」という状況設定は、戦闘場面を描くのが戦争映画ではなく、戦闘と戦争は違うものだという押井監督の考えの中で非常に重要なことであり、ここに21世紀のテロと戦争の本質に通じるものがあるのだが、今ここではそれについて論じない。

 いずれにせよ、この『パトレイバー2』が作成された時期、1990年代では、自衛隊のクーデターはあまりにも非現実的すぎたろう。しかしながら、日本の戦後史全体に目を向けてみると、実際に自衛隊のクーデター計画が何度かあったと見るのが事実のようだ。

 先日書いた三矢研究もそうであるが、これはどちらかというと自衛隊による国家統制計画であって、政府要人を殺害する目的はなかった。しかし、1961年に公安に発覚され逮捕されて未遂のまま終わった三無事件では、右翼と元旧日本軍と自衛隊の将校らが、当時の池田内閣を倒し、クーデターを起こすことを計画していた。これが破防法適用第1号事件になった。

 「自衛隊は誰のものか」には、三無事件については書かれていない。僕が知った三矢研究以上の衝撃の事実とは、(別に衝撃でもなんでもなく、ただ僕が知らなかっただけなんだろうけど)三島由紀夫と自衛隊の関わりである。1970年に、三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で東部方面総監を監禁し、自衛官に決起を促し、そして自殺した事件があった。僕はこの出来事は、作家三島由紀夫の意思で起きた事件だったんだろうと今まで思っていた。ところが、この事件の背景にかなり自衛隊が深く関わっていることを、この本で僕は知った。

 この「自衛隊は誰のものか」の中の三島事件の箇所の資料は、山本舜勝『自衛隊「影の部隊」』講談社(2001)であることを知り、僕も新宿の紀伊国屋でこの本を入手して読んでみた。すると、全学連による反政府運動は日増しに激化し、今にも共産革命が起こるのではないかという当時の社会世情の中で、国家の防衛に強い危機感を感じていた旧日本陸軍出身の自衛隊幹部とアメリカ陸軍とCIAは自衛隊によるクーデターを望んでいたとのことである。アメリカは、中ソ接近による極東アジアでの共産主義勢力の拡大に対抗するため、日本が憲法を改定し、自衛隊が国軍になってアジアの共産主義に対する西側陣営の防衛を本格的に担ってくれることを望んでいた。つまり、彼らはクーデターの機会を求めていたのだ。

 一部の自衛隊幹部は、日本国内での新左翼運動と、各地の都市闘争の勃発に対して、自衛隊が治安維持出動をしデモ隊を鎮圧して、そのままクーデターへと流れ込み、かくて自衛隊を国軍として社会に認知させようと考えていたという。彼らにとって、国を憂い、自衛隊の覚醒を論じていた三島由紀夫と関係を持つことは願ってもないことだった。

 この『自衛隊「影の部隊」』によると、クーデターを画策する高級将校たちが、一度は三島の構想に理解を示したものの、最後は自分たちの保身のために三島の構想を握りつぶし、うやむやにしてしまったという。また、キッシンジャーの訪中により、アメリカの対中政策はそれ以前のような強固な対抗姿勢を全面に出すものではなくなりつつあった。さらに激化し続けると思われた学生運動は、警備力を強化した警察機動隊の前に次々と撃破鎮圧され、自衛隊の治安出動の可能性はなくなってしまった。この時の警察側の内情については、佐々淳行『東大落城―安田講堂攻防七十二時間』文春文庫(1996)に詳しい。

 つまり、三島だけが取り残されたのである。この時の三島にあったのは、絶望だけだったであろう。その後、彼がなにをしたのかということは周知の通りだ。自衛隊は三島由紀夫を裏切ったのである。

 今、三島事件から30年後の今日、この出来事を振り返って見ると、三島由紀夫の自衛隊と戦後日本に対する考えは(ある意味において、であるが)正しかったと言わざるを得ない。三島が書いた檄文の中の「戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎの偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆく」という文章は、その後の日本国民のバブルへの狂騒と、小学生が同じクラスの子の首を切り裂くようにまでなったことを目の前にしている今の我々の心に突き刺さる。

 僕はどうも『パトレイバー2』の柘植行人は、三島由紀夫の最後と重なるような気がしてならない。クーデターの実行を塞がれた三島は、クーデターらしき状況を演出することによって、メッセージを伝えたかったのではないだろうか。そして、絶望しかない三島は演出の最後を自らの死でしめくくったが、柘植はそうしなかった。柘植は、この街(国)の未来をまだ見ていたいと言う。

 『パトレイバー2』のラストシーンは、希望なのか、それともあきらめだったのだろうか。そして、三島由紀夫は今の日本と自衛隊を見て何を思うだろうか。

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June 24, 2004

スッチーの給料

 JALのスッチーの給料が月70万~90万円だったということに驚く。まー、いろいろな手当込みなんだろうけど。世の中には、こうした職業もあるんだなと思う。僕もそれなりに飛行機に乗るが、アメリカへ行く時はたいていユナイテッドかデルタかノースウエストを使う。日本の航空会社の国際線には乗ったことがない。だから、JALのスッチーってどうなのかよくかわらん。

 アメリカのスチュワーデスは、「やることはやる」「それ以上はやらない」というオバサンが多いが、別にこっちもそれでなんとも思わない。大体、もっと料金が安くなるのならば、スチュワーデスはなくてもいい。エコノミーに乗っているアメリカ人は、みんなそう思っているのではないか。

 日本の航空会社のスチュワーデスは、容姿端麗、語学に優れ、きめ細かいサービスをしてくれるという(何度も言うが、自分は乗ったことがないので本当のところどうなのかわからん)。だから、それだけ高度な知識と技術を必要とする職業なのかもしれない。よって、これだけの高給が支払われるのだろう。日航ファンという人々もいるらしい。

 それにしても、日本のスチュワーデスにある、いわゆる「高級感」みたいな感覚って、一体なんなのだろうか。つらつら思うに、これは海外旅行が金持ちの高級道楽だった時代の名残ではないかと思う。

 戦後まもない頃の日本では、外国旅行をするにはものすごくカネがかかった。1ドルが350円もした頃があったという。つまり、その当時の海外旅行などというものは、金持ちのやることであり、ステイタス・シンボルであった。さらに、ここに日本人の外国への憧れのような気分もプラスされ、海外旅行イコール、まあ、なんて優雅で、お金持ちなんでしょうね、という感覚が定着したのではないだろうか。

 金持ちの乗る乗り物である飛行機の添乗員はかくあらねばならない、かくあって欲しいという日本人の希望を具現化したのが日本のスチュワーデスではなかったのか。だから、まるで宝塚音楽学校みたいな教育を課し、タカラジェンヌみたいなスチュワーデスを育てたのではないか。日本人の外国への憧れの度合いと、スッチー花形職業というイメージの度合いは正比例関係にあると言えよう。国際線の旅客機のスチュワーデスに美人を置くというところに、今の北朝鮮の美人応援団と同じものを感じるのだが。さらに、バブル期の日本全土でまともな金銭感覚が麻痺したことが、さらにスチュワーデスは高級な職業というイメージを押し上げたのだろう。

 しかしながら、今や、格安チケットで誰でも外国旅行ができる時代になった。日本人の外国への憧れの度合いも一昔前よりも大きく下がった。すると、正比例関係にあるスッチー花形職業というイメージも下がることになる。もはや、飛行機は金持ちの乗り物ではなくなった。かくて、スチュワーデスも添乗員としての業務を遂行することだけが求められ、それ以上、それ以下の何者でもないという社会通念になりつつある。


 とまあ、いろいろ考えるが、ようは日航の給与制度のことであって、今回の訴訟とスチュワーデスの給料が庶民感覚から見てあまりにも高額すぎるんじゃないかという疑問は別のことであり、かつ、当事者からすればよけいなお世話だろう。「育児・介護と仕事の両立」というのは確かにそうだなと思うが、「JALはママさんスチュワーデスに仕事を!」というスローガンは、そういう話じゃないだろうと思う。

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June 23, 2004

死に急ぐ社会

 22日、秋田県羽後町の中学校で焼身自殺をした中学3年生がいたという

 同じく22日、岩手県前沢町のJR東北線前沢駅で、同県胆沢郡内の県立高校1年がホームに入ってきた上り貨物列車に飛び込み、即死したという。駅の待合室で、一緒にいた学校の友人に「これから飛び込む」と言い残し、自分の荷物を預けた直後、列車に飛び込んだという

 同じく22日、東京都では、中学生らしき女の子が5歳の子供を共同住宅の4階と5階の間の踊り場から突き落としたらしいという事件が起きた

 茨城県では先日、女子高生が殺害されている

 実際、この手の事件は毎日どこかで数多く起きているものなのだろうけど、こうも立て続けに見せられると暗澹とした気分になる。この、どこかのタガがはずれたような状況は、ずっと前から始まっていたのだろうけど、それが表面化してきた感じだ。もう、天は落こっちゃんたんだろうなと思う。

 厚生労働省が03年の合計特殊出生率が1.29に低下したことを年金制度改革関連法成立の12日前に把握しながら、法成立5日後の10日になって発表したという。年金がどうだとか、厚生労働省が隠していたということ以上に、出生率が毎年低下しているということの方が重要だと思う。もはや、人は子を産み、育てることをしなくなったということだ。これは、日本社会そのものが自殺を望んでいるのだと思う。社会全体が衰弱死もしくは自然死に向かって進んでいる。

 前に、ここで「終わった世界」という記事を書いたが、正しくは「死に急ぐ社会」なんだと思う。 今、僕たちはなにか取り返しのつかないものが崩壊していくのを目にしている。 

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June 21, 2004

ガチャガチャ「ぼくの小学校」

 某用で実家に返り、近所のサティという大型スーパー店へ行くと、そこのおもちゃ売り場の近くにガチャガチャのコーナーがありました。そこで前から気になっていたガチャガチャの「ぼくの小学校」というシリーズのひとつをケータイで撮ってきました。(なにゆえに?)(^_^;)


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 調べて見ると、この「ぼくの小学校」シリーズはバンダイのヒット商品のようらしい。僕が子供の頃はガチャガチャは子供しかやらなかったが、今では大人を対象にした商品が数多く出ていて、かなりの好評のようだ。この「ぼくの小学校」シリーズも、70年代の小学校の備品や文房具のミニチュアだ。

 同列のもので、「学校のおもいで」というシリーズもあって、こっちはガチャガチャではなく箱入りの食玩商品。これもなかなかいい。

 当然のことながら、当時はポケモンもパソコンもインターネットもなかった。あまりにも荒れている今の小学校と比べると、あの頃の小学校はまだ牧歌的だったのかもしれない。

 しかし、これいいな。集めようかな、と思う。ふふふっ、今の私はオトナ買いができるのだよ。

 中学生や高校生の頃の夢をたまに見る。次に多いのが小学生の頃のことで、不思議なことに、大学時代はまず夢に見ない。見ても浪人の時の夢なのだ。大学時代というのは、自分の中では「なかったこと」になっているんじゃないかと思う。(^_^;)

 自分の小学校から高校までは、今思えば、まあそれはそれで楽しかったと思う。楽しかった小学生時代、中学生時代、高校時代を過ごせたら、その思い出は人生の一生の宝になる。その思い出が、大人になって生きていく力を与えてくれることがある。

 今の子供たちはどうなのだろう。楽しい思い出を残しているのだろうか。

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June 20, 2004

三矢研究について知る

 「P2」の原稿書きのために、自衛隊とか軍事関係の本を読んでいる(今月末締め切りなのに、今から読んでいるのは、もう遅いだろという気がしないでもないが)。今の戦争について論じるには、RMA(軍事革命)のこと知らなくてはアカン。つーわけで、日本ではRMAについての本を江畑謙介が書いていたなというわけで、新宿の紀伊国屋へ行って、江畑さんの本を買い求めた。買おうと思った江畑さんの本の何冊かは講談社現代新書なので、講談社現代新書の棚をつらつらと目にしていたら、自衛隊についての本が目に入った。

植村秀樹『自衛隊は誰のものか』講談社現代新書(2002)

 本を手にとって、パラパラとページをめくってみると、自衛隊設立以来の歴史、つまりには戦後史が書いてあってなんか良さそうなので、この本も買い求めることにした。

 帰りは神田神保町に寄って、いつも行くルノアールで、カツカレーを食べてコーヒーを飲みながら、溜まりに溜まったHerald TribuneとかNewYorkTimes Weekly版とかTimeとかNewsweekを読む。定期購読をしているのだけど、平日は読む時間がないからすぐ溜まってしまう。Herald Tribuneは定期購読ではなく、読みたい時に駅の売店で買っている。日本ではNewYorkTimesの日刊の購読ができないので、プリントメディアのNewYorkTimesが読みたかったらHerald Tribuneを読むしかない。

 そうゆうわけで、僕はヘラトリ(と呼ばれる)が好きだ。ちなみに、JapanTimesは「本日コレコレの出来事がありました。ザッツオール。」みたいな公正中立なことしか書いておらず、ジャーナリズムとしての分析なり主張なりがないから僕は好きではない。JapanTimesはつまらない。たまに買って読むと、ああ買わなきゃよかった思うことが多い。シンブンってーのは偏ってなくてはイカン。てか、偏っているものなのである。読む側は、偏っているということをわかって読んでいるのだ。

 で、ヘラトリつーかNewYorkTimes(ヘラトリの記事はNewYorkTimesから転載している)を読むと、9.11委員会報告での同時多発テロが起きた時の不手際のことが載っていて、もはや、こりゃあ次の選挙はダメだろうと思う。しかし、NewYorkTimesとかを読む人はそうだろうけど、読まない人々の方が圧倒的に多いわけで、なんだろうとかんだろうと「私は共和党支持」とか「ケリーよりも今のブッシュの方がまし」と思う人も多いわけで。はたして今回の大統領選挙がどうなるのか、今はまだわからん。

 それにしても、この店は、僕が中学生の時から通っている店なんだけど、数年前から店内の音楽がやかましいものになった。時々、サラ・ボーンのジャズをかけているときはいいのだけど。とにかく、やかましい。うーむ、スタバに変えようかな。しかし、あそこは店内が狭い。

 冷房がきつくなってきたので、店を出る。


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(FOMA F900iにて撮影。なんか画像が荒い。なんでや。)


 自宅へ戻り、黙々と『自衛隊は誰のものか』を読む。ここで、三矢研究のことを知る。三矢研究って、昔、小松左京の小説にちらっと出ていたよなあということぐらいしか僕は知らなかったのだが、なんとこーゆーものだったのか!と驚く。

 三矢研究とは、自衛隊統合幕僚会議が1963年に実施した「昭和38年度統合防衛図上研究」のコードネームのことだ。内容は、朝鮮半島で北朝鮮が38度線を超えて侵攻を開始した際に、自衛隊、米軍、そして日本政府がどう動くかついてシュミレーションを行ったものである。もちろん、こうした研究をすること自体は当然のことであって、むしろ統幕会議はこーゆーことをやってもらわなくはならんと思う。問題なのは、その具体的中身であった。このシュミレーションは、戦前の国家総動員法をベースにしていたのである。自衛隊が現在許可されている法令の範囲を大きく逸脱し、自衛隊の都合で国と国民のすべてを管理し統括するというシナリオになっていた。このへんが、もはやシュミレーションではなくクーデターではないかと、時の佐藤内閣は社会党から追及された。自衛隊が本気でクーデターを考えていたのなら、こりゃあもう「P2」か「二課の一番長い日」になるではないか。

 しかしながら、今の視点から見ても、これは実現にはほど遠かったと思う。とにかく、発想が旧軍のままなのだ。シュミレーションとして意味があったものとは思えない。なんたって、このシュミレーションでは軍が、じゃなかった自衛隊の行動がすべてに優先し、徴兵制すら復活するのである。統幕会議ってのは、参謀本部のまま、なにひとつ変わっていなんだな。

 この三矢研究のことが知ることができただけでも、この本は有意義だった。その他、三島由紀夫が市ヶ谷で自殺した時、交友があった一部の幹部自衛官にクーデター計画があったとか、吉田ドクトリンはドクトリンと呼べるようなシロモノではなかったとか、吉田の後を受け継いだ池田と佐藤が自衛隊をなしくずしにしたということなど、この本を読んで数多くの事実の発見があった。

 この本の筆者は、「自衛隊は誰のものか」という問いに、現状ではまるで米軍のものになっているのではないかという回答をしている。本来、自衛隊は日本国民のものだったはずなのに。しかし、こうした現状に至ったのは自衛隊自身と政治家とそれを選んだ選挙民、すなわち日本国民のせいではないか、と僕は思わざるえない。

 つまり、現状では米軍の下にいて、その反動なのかどうか知らないが、自分たちで主体的な行動計画を立案すると、戦前の国家総動員法となんら変わらないものになるという、完全なるアメリカ従属か、あるいは独断専行で帝国陸軍復活か、という選択(海自はもはやカンペキにアメリカ海軍の付属機関になっているので、そもそもこうした発想をしない)しか思いつかない。三矢研究は40年前のことであるが、自衛隊は変わったのだろうか。

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June 19, 2004

チェイニーに注目せよ

 アメリカ議会の独立調査委員会は16日に、アルカイダとフセイン政権の関連はないと結論づけたという。追いつめれたブッシュは、17日に「同時多発テロがフセインとアルカイダによって画策されたとは、この政権は言っていない」と述べたという。さらに「フセインが権力を失ったことで、世界はより幸せになり、米国はより安全になった」とどこまでも自分がやったことの誤りを認めるつもりはないようだ。「世界はより幸せになり、米国はより安全になった」と言うところに、このオヤジはまともではないことがわかる。ブッシュ、必死だな。

 16日には、ターナー元米中央情報局(CIA)長官ら政府や軍の元高官27人が、ブッシュ政権の外交・安全保障政策は、イラク戦争などで「完全に失敗した」という声明を発表したという。政治的立場からの発言ではなく、国の情報機関のトップや軍の軍人たちがそうしたことを言っている。もはや、ブッシュの命運は尽きたと言ってもいいだろう。

 しかし、そうは言っても、ブッシュを指示する有権者はまだまだ多い。今度の選挙では民主党が勝つとはまだ思えない。ただし、共和党の形勢は非常に悪くなったことは確かだ。

 唯一、チェイニー副大統領は依然として、アルカイダとフセインの関連があったことをCNBCの"Capital Report"という番組の中のインタビューで述べている。このチェイニーというおっさんは、ある意味ですごい。この人は本気で確固たる信念をもって、アメリカをイラク戦争の泥沼に落とし込んだ確信犯である。今のブッシュ政権を考えるには、バカ殿のブッシュよりも、ディック・チェイニーに注目する必要がある。しかし、ブッシュについては数多くの本が出ているが、チェイニーについてはあまりない。ここはひとつ、チェイニーについてしらべなくてはアカンなと思う。

 チェイニーについて、僕が読んだのは、

ウィリアム・D・ハートゥング著『ブッシュの戦争株式会社』阪急コミニュケーションズ(2003)
ダン・ブリオディ著『戦争で儲ける人たち』幻冬舎(2004)

の2冊だけ。あと、NewsWeekでいくつかの特集記事があった。Bob Woodwardの『Bush at War』『Plan of Attack』にもチェイニーのことが書いてあると思うが、僕はまだ読んでいない。『Bush at War』は読まなくては思いながら、ずるずると月日がたって日本語訳が出てしまった。そうなると、なんか日本語訳本で読んだ方が早いよなと思う。『Plan of Attack』もそろそろ日本語訳が出るなあ。

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June 18, 2004

恨みの無限ループ

 もういい加減、この話題から離れようと思っているのだが、長崎の殺人事件について、これだけはどうしても書いておきたいということがある。この加害者の子は、小説『呪怨』を読んでいたという。『呪怨』は、いわば逆恨みで殺された女性の怨念が悪霊になって、人に祟りをなす物語である。

 この加害者の子は、少なくとも殺害した時は、被害者の子をそうとう恨んでいたのだろうと思う。恨む理由が、この子の中ではあったのだろう。では、殺された側の子はどうだろうか。このへんよくわからないが、唐突に自分の人生を終わせられたことについての恨みがないだろうか。仮に、この被害者の子は恨んでいないとしても、この加害者の父親はどうだろうか。つまり、この加害者の子は他者を恨むことで、自分も恨みをかってしまったということになる。「恨む」という感情は、人間の心理の本質的なものでもあり、感情の中でも非常に強い情念になる。だからこそ、古来から「恨み」は、人間関係の大きなファクターであり、「恨み」を元にしてありとあらゆることを人はやってきた。

 この事件のことを初めて知ったとき、僕の脳裏に浮かんだことは、この子は祟りを恐れないのだろうかということだ。タタリなんて、非科学的なことと思うかもしれないが、この子は他者を「恨む」ことで、他者から「恨まれる」という恨みの無限ループに入り込んでしまった。そこから起こる災いを、昔の人ならタタリと呼んだだろう。この子は、そのことに気がついているのだろうか。他人に向けた刃は、やがて自分に返ってくる。だからこそ、自分の魂を「正しい」方向へ向けるようにしていかなくてはならない。オカルトや心霊に興味や関心がある子なら、そのぐらいわかっていたはずだ。ところが、この子にはそれがわかっている様子が見られない。

 こういうことを書くと、ほんともー、おかしなやつと思われるだろうけど、僕は小学校では霊魂や心霊について子供に教えることが必要だと思う。ラフカディオ・ハーンの小説「怪談」を朗読するだけでもいい。人の命を大切に思う心を持つのではなく、自然と生きとし生けるものの命に畏敬と恐れを抱く感情を持つことが必要なのだ。なにも大人になってまで、そうした感情をずーと持っていろとは思わない。子供の時はタタリとかがあって、オバケとかいると思っていたよ、で十分だ。しかし、子供の時にそうした感情を持っていたということは、大人になった時に大きな意味を持つと思う。

 この加害者の子は、被害者の子を恨んでいた。それはわかる。そういうこともある。でも、その他者を恨む自分を見る、もうひとつ別の視線をこの子は持って欲しかった。教室のみんなをうざいんだと言っている自分を見る視線、自分をいじめるクラスメートを見る別の視線。教室という閉鎖された世界の中で、恨んだり、恨まれたりしている自分たちそのもの全員を、どこか別の所から見ている視線の存在を感じる子になって欲しかった。もちろん、一歩間違えれば、精神分裂になるか新興宗教になってしまうかもしれない、危うい心の旅なのだけど。その旅に出て欲しかった。

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June 17, 2004

リリィシュシュのすべて

 ネットの書き込みと殺人というつながりのある映画として、岩井監督の映画『リリィシュシュのすべて』がある。この映画は、見ていてそうとう辛い。今の中学生は、これほど追いつめられているのかと思う。見終わった後は、激しく鬱になる。この鬱は、数日間続く。半月ぐらい、ずーと鬱になった。それほど、この映画は痛い。自分はもう中学生という時代を遙か昔に終わっていて良かったような、あの時代に戻りたいような、そんな気持ちになる。僕は当時、空手オタクみたいな少年で、中学時代はあっという間に過ぎてしまったような気がする。僕は身長が大きい方だったし、とりあえず武術やっていたのでイジメにあうこともなかった。ここまでイタい中学時代ではなかったと思う。それでも、いろいろあったけど。(遠い目・・・。)

 この映画は、最初は近所のTSUTAYAで、岩井監督のなんか中学生の心情を描いた映画ということで「ふーん」という感じて手にとって、なにげなく借りてみたのだけど、見始めてそのままズコーンと鬱の奈落の底に落ち込んでしまったという映画である。DVDを自分で買おうと思ったが、ネットで調べてみると、特別映像がついている特別編はもう品切れで入手不可、通常版の方も店で見つけるのはむずかしいということだった。それでも渋谷のHMVに言ってみたら、なんとあっさりと通常版のがあるではないか。で、買い求めて、その後、何度か見て、またもや激しい鬱になる。

 『リリィシュシュのすべて』と『THE END OF EVANGELION』の2つは、自分がこれまで見た映画の中で最も「見終わった後で、ものすごく落ち込む、鬱になる、死にたくなる」映画のベスト2と言えよう。(最近、これに紀里谷和明監督の『CASSHERN』を追加してベスト3と呼ぼうかと思っている。)

 『リリィシュシュのすべて』をまた見ようという気には今はちょっとならない。とりあえず、明日も仕事がある。これを見ると、心がアッチの方に行ってしまって、いつ戻ってくるか自分でもわからない状態になるので見るのは危険。それでも、近いうちにこの映画についてまとまったものを書こうと思っている。

 長崎の事件で、大人はネットは危険とか、モラルが必要とか言っているけど、そうした対応しかできない大人たちを見ていると、なんかものすごく無気力になってくる。自分たちの子供の頃になかったメディアが、今子供時代であるこの子たちにとってどのような意味を持っているのか、それでわかるんスかと思う。

 いっそのこと、『リリィシュシュのすべて』上映会をやって、親と教師が一緒にこの映画を見るというのはどうか。しかし、そういうことはやらないだろうなあと思う。「保護者は、子どものネット利用に積極的に関与し、危険性や有害性を指摘するよう努力すべきだ」という発言を見て、あーそうですか、はい、はい。大人は自分を変えようとはせず、とにかくひたすら子供を管理すればいいと思っている。

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June 16, 2004

武力行使はしないというタテマエ

 自衛隊を、主権移譲後のイラクで編成される多国籍軍に参加させるという。よくわからないのが、小泉総理の「多国籍軍に参加しても、自衛隊の活動は日本国の指揮下に入り、日本の主体性をもって活動する」という言葉だ。軍隊なんだから、指揮系統は一元化されていなくてはならない。そんなことは当然だろう。あのー、つまり、それって、「多国籍軍に参加しない」と言っているのと同じなのだが。もし僕が多国籍軍の司令官だったならば、そんなことを言う日本は参加しないでよろしいと思うであろう。

 きっと小泉総理としては、本心では多国籍軍に参加したくはないのだが、諸般の都合により日本の自衛隊がイラクから撤退するわけにもいかないので、とりあえずイラクに残る理由をつけるために「多国籍軍に参加する」と言っているだけなのだろう。本気で、多国籍軍に参加すると思っていて、それで指揮系統は別にすると言っているのならば、よーするにこの人は軍事の基本を知らないということ以前に、そもそも組織の中で仕事をしたことがないんだなということになる。フツーの会社の勤め人だって、この言葉はいかにヘンかということがわかるだろう。

 アメリカ兵の輸送を空自が行っているけど、防衛庁は「これまでも武器・弾薬は運ばないという日本の主体性は確保されている。米兵の輸送も、運ぶ先が非戦闘地域なら武力行使とは一体化しない」と説明しているそうである。「運ぶ先が非戦闘地域なら武力行使とは一体化しない」と本気で思っているのならば、これはそうとう問題ありということになる。しかし、言っている本人も本気でそう思っているわけではないだろう。そう言わなくてならないので、そう言っているのだろう。では、なぜそう言わなくてはならないのか。

 そこまで詭弁を弄して、日本の自衛隊は武力行使はしないというタテマエを守りたいのかと思う。このタテマエを、誰に向かって、なんのために守っているのだろうか。イラクではもう、日本人であるということで殺害される状況になっている。それでも、このタテマエを守り続けるのはなぜなのだろう。

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June 15, 2004

大人たちは、この事件のことをすぐに忘れるだろう

 精神鑑定というものが、僕は好きではない。つーか、カウンセリングとか心理学そのものが、どーも好きではない。実は、大学時代、僕は心理学をそれなりにかじったことがある。しかし、学んでみると、これでは心や精神はわからないだろうと思った。実際、心理学でも人の心はわからんが前提になっている。「わからない」から「コレコレの方法でわかるようにしましょう」というのが心理学なのである。しかし、だからこそ「コレコレの方法で」こうわかりましたと言っても、それは「コレコレの方法で」という話で、実際のところがわかるとは心理学は言っていないのである。あくまでも、学問的にはこうなるとだけしか言っていない。それ以上、言えるわけがないのである。じゃ、なんで心理学があるのか。そのへん、心理学が好きな人がいるからとしか言えないのではないか。

 もうひとつの観点として、この社会は合理的な意味付けを求めるということがある。心理学のなんかよくわからんが、とにかく理論的に説明ができるというところが現代社会にはウケルのである。だからこそ、カウンセリングは確固とした職業になる。道教や陰陽道とかでは、深夜の街頭の占いにしかならない。なぜ、合理的な説明が必要なのか。それは、合理的であれば人間が管理し操作することができるからである。現代社会では、予測し得ないことが起こってはいけないということになっている。人の心や行動も予測可能でなくてはならない。予測できなれば管理ができないからである。

 今回の長崎佐世保の事件は、小学生が同じクラスの子を殺害するという、予測できないことの最たるものであった。この加害者はなんかわけのわからない特別な子だった、で終わりというわけにはいかないらしい。なにがなんでも合理的な理由が欲しいようだ。

 昔、奈良県の奥吉野にあるとある村へ旅したことがある。そこで聞いた話であるが、ある日、渓流にかかっている橋の上を子供たちが歩いていた。その風景を写真に撮った人がいて、その写真ができたので見てみると、その写真には、その子供たちと共に弘法大師の姿が映っていたという。この村のあたりは、千年前に空海が若い頃に修行した山河である。村の人は、その橋のたもとに祠を置き、御大師様を祀ったという。それで終わり。それだけの話だ。それにしても、現存する空海の肖像画は、あくまでも「肖像画」、それも大昔のものであって、誰も本当の空海の顔や姿は知らないのだが、なにゆえ村の人々には、その写真に写っているのが空海だとわかったのであろうか。そのへんはナンであるが、つまり、その村の人々にとって、写真にナニモノカが映っても不思議でも何でもないのだ。川に魚が住み、空を鳥が飛ぶように。そうしたものがあることは当然中の当然のことなのである。そーゆーことがこの世の中にはある、ということがその村では常識になっているのである。「怖い」とか「怖くない」とか、「不思議」とか、「不思議じゃない」とかいうのでなく、ただ淡々とそうしたことがあったという感覚なのだ。

 神秘というものに対する感覚が、彼らと僕たちとでは異なっているのである。都会では、こうはならないだろう。写真にナニモノカが写っていたとなると、大騒ぎになるか、怪談になるか、あるいは、これはコレコレの理由のよる、コレコレの現象でしたということになるだろう。僕たち都会人が、「科学的な理由づけができないもの」を恐れるのは、この世は合理的に理由付けができるという近代世界観を持っているからだ。僕たちは、神秘に対して、恐怖を感じるか、あるいは科学的説明で納得するかのどちらかしかない。近代以前の社会では、人に理解できないことが起きた場合は人々は神や仏に祈った。神社や寺への奉納や寄進をしたり、祭りを行ったりして、共同体の動揺を鎮めようとした。彼らは「意味付け」をしないわけではない。彼らもまた、彼らの世界観の中で「意味付け」を行っていた。その意味で、彼らもまた合理的解釈をしていたのである。その「意味付け」の意味の体系が、近代以前と以後では大きく変わったのだ。

 長崎佐世保の事件の加害者の精神鑑定を行うという。この加害者のホームページの文章がどうの、絵がどうのと、マスコミは(一見)合理的な説明をしているが、どーも、後になっての理由付けである。しかし、世の人々にとっては、後になっての理由付けでもいいから、とにかく(一見)合理的な説明が欲しいのだろう。それがないと「怖い」のである。(一見)合理的な説明があれば、ああそうだったのかと安心するのだ。現代人にとって、マスコミとはそれこそセラピーみたいなものなのだろう。

 しかし、では、この被害者の女の子はなぜ死ななくはならなかったのかということに対する答えが、これで出るとは思えない。そもそも、心理学も精神医学もそうしたことに答えるものではないのだ。それでは、なにがこの問いに答えられるのか。

 ここで、宗教というものが出てくるが、かといって、今の形骸した宗教では、子供の心にとどくことはない。

 この事件の後のことを僕は思う。どうせ大人たちは、この事件のことをすぐに忘れるだろう。しかし、子供たちはこの事件をいつまでも覚えていると思う。子供たちは、この事件にどのような意味付けを与えるだろうか。この加害者と被害者の2人は、子供たちの伝説の中に残るのではないかと思う。学校の怪談のようなものになるだろうか、それとも、ネットの中の怪談になるだろうか。それは今はわからない。

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June 13, 2004

もう経済成長はやめよう

 子供の出生率がさらに低下したという。出生率は今度もさらに低下するだろう。介護施設を充実させて、働く女性の育児体制を整えるとか、会社での育児休暇を男性も取りやすくするとかいろいろ言われているが、子育てにカネがかかるという現状も大きな要因になっている。しかし、結婚や子育てにカネがかからないようになると、社会は経済的に困ることになる。具体的なデータを見たわけではないが、日本経済の中での育児産業や教育産業の占める割合は決して小さくはないであろう。

 であるのならば、

 少子化をなんとかしたい--->子育てにカネがかかる現状を改善したい--->子育てにカネがかからないようにする--->育児産業や教育産業は衰退する--->日本経済の成長はさらに下がる、という図式になるはずである。

 さらに、当然のことながら、

 親が子育てに力を注ぐ--->これまでのような仕事中心の生活をやめる--->労働時間を少なくする--->企業活動は低下する、ということなのである。

 労働時間が減れば、収入も減る、子供にカネがかかれば、その分、どこかを切りつめなくてはならない、ということになるが、その一方で、メディアがさかんに新製品を買えと煽るのは矛盾している。今必要なのは、貧乏でも心豊かに暮らす価値観であるが、そんな価値観をもたれては困るのが経済なのである。

 つまり、少子化をなんとかする、ということは、経済の成長をもうやめようということなのだ。なにゆえそうはっきりと言えないのか。戦後のモノがなかった時代には、モノを作れば作るほど売れていた。一面の焼け野原にビルを建てたり、橋を架けたり、道路を造ることは意味があった。あるいは、朝鮮戦争の時は、軍需物資が大量に必要だったので、これもまた作れば作るほど売れた。日本人がまだ貧しかった時代には、産業の発展には意味があった。

 しかし、バブル経済すら崩壊した今、もはや、これ以上、なにをしようというのか。もちろん、成長すべき産業は成長すればいいと思うが、これ以上の経済成長は無理をしているとしか思えない。企業は、無理矢理に需要を創り出し、消費者に無理矢理買わせているとしか思えないことが多々ある。国は、従来のやり方を変えることができず、まだ高度成長やバブル時代の目標を掲げているとしか思えない。人々が、新製品を買わなくては経済が回転しないという構造そのものを変えるべきだ。

 企業は利益を上げなくてもいいとは言えず、お役所も企業収益が上がらないと法人税収が上がらず、よって行政に支障がでるというのはわかる。しかし、今の子育てにカネがかかる現状を、カネがかからない状況に変えようというのならば、上記の図式になるのは理の当然であって、その当然のことを踏まえてものを考えなくてはならないではないかと思う。

 少子化、非婚化、フリーターの増加などが意味することは、もう無理な経済成長はやめようということだと思う。日本は、そうしたポスト産業社会の状態になりかけているのに、社会を運営する側の人々がそれに気がつかず、相変わらず高度成長やバブル時代の価値観しか持っていない。

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June 11, 2004

藤原先生のような教師がいてほしい

 6月4日の記事(「記事」という用語はなんとかならないものか)に、トラックバックがあったことに気がつきました。なるほど、トラックバックってこうして使うのか。

 トラックバックの「日々適当なblog」での小6殺人事件についての記述、今回の事件はネットが悪いわけでもテレビが悪いわけでもない、「命の大切さ」と言ったところでどうにかなるわけでもないという意見に僕も賛成したい。この加害者の子は、いわば渡るはずのない向こう側に渡ってしまった子なのだと僕は思う。では、なぜこの子は向こう側に渡ったのか。

 この「日々適当なblog」が紹介していたブログ「魂理学入門」を読んでみた。カウンセリングを職業にしている人で、小学校のスクールカウンセリングもやっていたという。「「命の尊さを説く」などという毎度の寝惚けた戯言では根本的解決は無理である。」という記述に、そうだろうなあと僕も思う。「命の大切さの教育が必要だ」というのは現場を知らん人のセリフなのだろう。相も変わらず「命の大切さの教育が必要だ」とかいった精神論を言っているのは、竹槍でB29をつつけといっているのと同じだという指摘にはまったく同意する。

 教師は加害者の子の心理状態を把握できなかったのかという記述があるが、これについては僕は教師は魂を扱う技術を持った人でないと思うので同意はできない。またカウンセラーを学校に配備することもいくつかの疑問を感じる。私の意見は、前にも書いたが、そもそも学校を圧迫している管理教育・受験体制の撤廃である。押しつけているものがなくなれば、自然と良い方向へ向かうだろうという楽観的な見方をしている。しかし、今の世の中で管理教育・受験体制の撤廃が果たして可能かというと、そうではないこともわかる。であるのならば、カウンセリングの導入も必要なのかもしれないとも思う。

 話は少し変わるが、僕はいしいひさいちのマンガ「ののちゃん」のファンである。この山田ののちゃんも小学生である。ののちゃんの担任の藤原先生がまたいい味を出している先生なのだ。藤原先生は別の作品では、小学校の教師をやめて作家になってしまうのだが、藤原先生はぜひともずっと小学校の教師を続けて欲しいと思う。

 実際の小学校の現場の荒廃さを思うと、とてもではないが藤原先生のような教師はいないだろう。そのへんに今の教育の問題があるような気がしないでもない。

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June 10, 2004

そーゆーことの話ができる大人が身近にいれば

 某用で、日比谷公園の前の飯野ビルというところに行った。その隣にあるプレスセンターのビルの中のジュンク堂に入ったら、河出書房新社から文藝別冊という一冊で一人の作家や文化人や学者や漫画家や特撮監督とかを特集するムック本(?)が棚に並んでいた。司馬遼太郎のがあったんで買った。で、ついでに澁澤龍彦のも買った。

 家に帰って、澁澤龍彦のをパラパラめくっていたら、先日、ペヨトル工房の『夜想』が復刊しましたというメールをもらっていたことに思い出した。復刊第一号は、マリリン・マンソンからゴスロリ(いわゆる、最近流行のゴシック・ロリータですね)まで、ゴス・カルチャー満載という、なんか見ていて、気持ちいいとはとても思えない内容なんだけど。(^_^;)

 なんで、澁澤龍彦のを買ったのかというと、あの長崎佐世保の小学6年生の女の子の愛読書が「バトルロワイヤル」だと知った時、そーゆー本もいいが、そーゆーことに関心があるのならもっと「いい本」が世の中にはたくさんあるのだから、他の本をもっとどんどん読みなさい、例えばせめて澁澤龍彦を読んで欲しい、と思ったからだ。もっとも、小学生が澁澤龍彦を読めるかというといろいろ問題もあるが。

 そーゆーことの話ができる大人が身近にいれば、あの子はああした事件を起こさなかったかもしれない。ただ、大人が身近にいればいいというのではないと思う。それがどんなに異常な内容であっても、受け入れて話を聞いてくれる人が身近にいればそれでよかったのではないかと思う。

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June 09, 2004

Compuserve大改造のお手伝い

 Compuserveという、日本では知っている人はあまりいないが、アメリカでは古くからあるオンライン・サービスがある。日本ではアメリカン・オンラインの方が知名度は高い。しかし、CompuserveにせよAOLにせよ、インターネットの普及により、今日まったく陽の目を見ない状況になっている。僕は、このCompuserveにあるJapan Forumというフォーラムの手伝いをもう何年もしてきているのだが、どうやらついに本格的にインターネットに対応した内容に変わろうとしているらしい。古くからの伝統的BBSスタイルは完全に払拭されるようである。

 というわけで、僕も立場上、この大改造に関わることになる。東京に住んでいながら、アメリカのネットに「ブッシュはイカン」とか好き勝手なことを書き込むのは大好きなのだが、こうしたアメリカのオンライン・サービスのシステムの運営や設計に関わることをやるのはシンドイんだよね。当然のことながら、アメリカのネットの最新動向や技術情報について、それなりの知識がなくては話にならない。そんなもん調べる時間がどこにあるというのだ。

 あーあたし、夏コミの原稿が・・・・とか言っていられなくなったな。

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June 08, 2004

大人の都合のいいようにはならない

 長崎県佐世保のカッターナイフ殺人事件について、さらに考える。報道によると、この子は殺害した後で、動かなくなったかどうか確認するために、その場に15分間留まっていたという。もうこうなると、この子はヘン。フツーじゃないと言っていいのではないだろうか。

 今回の事件で「誰もがこうしたことをやる可能性がある」と言われているが、ここまで異常なこととなると、まず「誰もがこうしたことをやる可能性」はないと思うのが当然なのではないか。いくら今の小学生だといっても、そこまでおかしくないだろう。今回の事件は、特殊で特別な子供が起こした事件だったと思う。世間一般の小学生はこうしたことはしないと思っていいのではないか。

 ネットでの記述に腹が立ったので、こうした事件を起こしたという見方があるが、これはもうそうした衝動的な殺人ではない。この加害者の子供の行動を見ると、「キレやすい」「何を考えているのか分からない」と言われる今の子供の心理とは違うなにか別のものを感じる。これほどの事件が起きたので、大人たちはどうしていいかわからず、ただ右往左往するばかりだ。大人から見ると、今の子供はストレスの塊で、命の大切さなどまったくわかっていない、いつ殺人者になるかもしれない者たちに見えるようだ。

 子供の管理のしすぎでないだろうか。大人は、子供のすべてを理解できる、管理できると思っていないだろうか。むしろ、そうした考え方が子供を追い込んでいるのではないか。心の教育とか、命の大切さを教えると言っているが、それは具体的にどういうことなのかよくわからない。公立学校で宗教を教えるわけにはいかないだろう。学校教師とは、大学で教職課程の単位をとって教員採用試験に合格した人々であって、宗教者や導師ではない。教師は人格者であって欲しいとは思うが、人格者でなければならないというものでもない。もともと、近代の学校制度というものは、そうしたことができるようにできていない(し、する必要もなかった)。そこまで、現場の学校教師に負わせようというのだろうか。

 ある意味で、子供とは管理し難い「自然」である。それをいかに管理するか。大人は、そうしたことばかり論じている。なぜか。この管理社会では、管理し難いものがあっては困るからである。しかし、困るといっても、子供は今の社会システムが登場するよりも、はるか以前の昔からこの世にあった自然である。心の教育よりも、今の教育の根本的問題になっている管理教育・受験体制そのものをやめようという声が出てこないのは不思議だ。小学校教育の根本的問題も大学受験にあるのは、誰でも知っているはずだ。いっそのこと、文部科学省そのものをなくそうという意見があったっていい。こんな事件が起きてしまったから、心の教育とやらいうものをお上が管理教育でやりましょうという発想自体がおかしい。

 今の教育の姿では、現場の教師も生徒もますます精神をすり減らすだけである。管理教育・受験体制そのものは変えず、心の教育によって心の豊かな生徒を育てるなどという、そんな大人の都合のいいようには子供はならない。

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June 05, 2004

もう終わった世界

 今回の事件を受けて、いくつかのテレビ局が番組を自粛するという。この自粛というのがよくわからんのだが。しかし、それしかできることがないんだろうなとも思う。

 この事件についてのネットでの書き込みを読むと、みなさんが今の世の中や学校教育に絶望している。その多くが若い人たちからの意見だ。自分はもう若くない年齢になってわかったことがある。この世は正義や理想や理念では動いていないということだ。このことが、若いときはわからなかった。職業人というのは、絶望しようがしまいが、とりあえず自分の仕事をしていかなくてはならない。それが全体として、こうした世の中を作っていることはわかるのだが。

 以前、「エヴァンゲリオン」を見ていて、ふと思ったことがある。この世の中ってもう終わっちゃった世界なんじゃないだろうか、と。

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June 04, 2004

再び、小6殺人事件のことを思う

 アメリカCIA長官のテネットが辞任したことについて書こうと思っていたが、どうしても佐世保の小6殺人事件のことを考えてしまう。しかし、考えたところで答えがでてくるわけでもなく、ただただコトバもなく沈黙するしかないわけであるが。

 ネットで嫌なことを書かれた、だから殺したという。しかも、嫌なことを書かれ始めたのは5月の半ば頃からだという。わずか半月たらずの「嫌なこと」で、問答無用で相手を殺した。それもかなり残忍な方法でだ。そして、犯行後、弁護士によると「コミュニケーションにまったく問題はなく、精神鑑定の必要性は感じない」という。

 報道を読むと、計画性をもった行動だったことがわかる。そして首を切る行為が、かなり意図的な切り方をしている。テレビを見てカッターナイフを使うことを思いついたという。これらの一連の思考や行動と、少年鑑別所では「会って謝りたい」「よく考えて行動すればこんなことにならなかった」と言っているごく普通の女の子であるということに、なにかそぐわないものを感じるが、現実はこうしたものなのであろう。

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June 03, 2004

小6カッターナイフ殺人事件を考える

 長崎県佐世保で、小学6年生の女子が同じクラスの女子をカッターナイフで殺害するという事件が起きた。それも、ネットで面白くないことを書き込まれたので、殺すつもりで呼び出して殺したという。ついに、小学生までもがこうした事件を起こすようになってしまったという気がする。それにしても、軍用ナイフではなく、カッターナイフで相手の首を切ったのである。よほどの殺意がなくてはできないだろう。それほどまでに相手を恨んだという「ネットに書かれたこと」とは一体なんだったのか。

 教師や学校の責任を言う声があるが、教師や学校がここまでカバーできるものではない。小学生はインターネットの使用を禁止せよという声もでてくるかもしれないが、インターネットが悪かったというわけでもない。今回、加害者が14歳未満のため刑法41条の規定で刑事責任を問われないということに対して、成人と同様の罰を与えるべきだという意見が多い。もちろん、犯した罪に対する厳罰は与えるべきだと僕も思う。それはそうだなと思う反面、この加害者の小6の子供を処刑して、それで終わりにしていいとも思えない。

 この加害者の親の責任であるということは確かにそうだろう。しかし、世の中のどれだけの親が確固たる自信をもって、自分は自分の子供の教育をしっかり行っていると胸をはって言えるだろうか。ましてや小学生の高学年である。叱るのも難しい年頃になってきている。親だからといって、子供のことがすべてわかっているというわけではない。きちんとしつけを教えなくてはと思う反面、いや、あまり厳しく言うと、うるさい親だとかえって反発するかもしれないと思う。いや、そういうふうに、子供の教育を躊躇すること自体に問題があるのかもしれない。やはり、親は親としてきちんと毅然たる態度で子供の教育を行わなくてはならないとも思う。しかし、今の時代は家族が希薄になり、親の力というものが昔よりも著しくなくなっている。今の子供は、親の言うことを聞かない。逆に、あまり親の言うことに素直に従い過ぎる子供でも困る。基本的なことは親の指示に従って欲しいが、それ以外は自分で判断ができる子供であって欲しいと思う。つまり、教育ということについて、どれが絶対正しいということはない。実際のところ、親は悩み続けながら手探りで子供と接していくしかない。

 もちろん、親に責任があるのは確かなわけであるが。

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June 02, 2004

「P2」を正面から論じたい

 「P2」の論文書きに苦労している。まだ全然進んでいない。締め切り今月末である。うーむ、どうなるんだろ。

 参考のために、他のみなさんは、この映画をどう論じているのだろうと、ネットで検索をしてもあまり「P2」の評論文はない。「P2」について、「良かった」「衝撃を受けた」等の言葉はあるのだが、なにがどう良かったのか、なにをどう衝撃を受けたのかがさっぱりわからん。南雲さんと後藤と柘植の大人の恋愛ドラマが良かったとか、主人公が中年で、渋い演出で良かったという評論はそれなりにある。しかし、「P2」は国際政治や現代の戦争論を反映しているとよく言われているが、では、なにがどう反映されているのか、そこんところをきちっと書いた文章がない。また、「P2」はポール・ヴィリリオの思想から影響を受けたとされているが、ではポール・ヴィリリオの思想のなにが「P2」のなににどう影響を与えたのか、ということを論じた文章を僕は見たことがない。もちろん、影響を与えていることは事実であろう。「事実であろう」とは思うが、それ以上のことはよくわかっていないのである。(つーか、ヴィリリオの思想そのものについて、日本でまともに論じられているとは思えん。)

 よーするに、この映画の上映から10年もたったのに、今だまともに思想や戦争論や国際関係論の観点から論じられていないのだ。それじゃあ、私が論じてやろうじゃないかと決心したのであるが、うーむ、全然進まん・・・・・・・。

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June 01, 2004

近藤ようこの『水鏡綺譚』を読む

 先日の日曜日、神田神保町の高岡書店へぶらりと入ると、近藤ようこの『水鏡綺譚』完結版があった。この人は中世の物語譚をよく書いている人で、以前『説教小栗判官』と『瓢かわいや』という作品を読んだことがある。この人は、國學院大学で民俗学を学んでいる。そのためか、中世の風俗の考証がしっかりしていて、あの時代の雰囲気がよく出ている。

 作者は、この作品が一番好きだと「あとがき」で書いている。

 この物語は、「立派な人間になるんだ」と修験道の修行の旅に出たワタルは、野盗に襲われた村の娘たちを助け、その中のどこから掠われてきたかわからない娘、鏡子の家を探しに一緒に旅を続ける話である。旅の中で、2人はさまざまな人、霊魂、妖魔と出会う。人と自然と霊界の中で、ひたむきに生きていこうとする少年ワタルと、天然ボケの美少女鏡子の「ろーど・すとーりぃ」である。

 鏡子の長くて濃い黒髪がいい。
 自分で自分の人生を開いていく小萩さんもいい。

 第十二話「空ゆく雲」は、わずか11ページである。セリフもなく、淡々とした風景描写が続くだけであるが、どれだけ多くのことを表現していることか。見事といっていい。

 この物語の最後で、2人の旅は終わることになるが、僕は終わったのではなく、まだ続いていると思う。この2人は一緒でなくても、おのおの心の中で一緒に旅をしているのだ。再びまた出会う日があったと思う。そして、2人で幸福な人生を過ごしたのではないだろうか。

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