September 15, 2019

ネットはこの国が劣化していくツールになった

 ネットが普及をして誰もが発信できるということが、これほど世の中を劣化させるとは思っていなかった。もともとインターネットは、全米の大学や研究所をつなぐ通信網だった。いわば科学者や技術者たちの通信技術だった。彼らがネットを使ってなにを会話しているのかと言えば、当然のことながら自分の仕事のことであり、それは学術情報であり、科学であり工学であった。いわばある決まった枠内の中で、ある水準以上のコミュニケーションが行われていたのである。

 インターネットが一般社会に公開された初期の頃は、このネット観の延長線上にあり、社会全体が高度な知的付加価値をもった情報の発信を誰もができる世の中になると思っていた。発信できるということは、価値のある発信をするということであり、それは価値の発信を創るということだったはずだ。

 しかしながら、そんな世の中にはならなかった。

 かつてアメリカでネットが本格的に普及し始めた頃、人々は本をよく読むようになったという記事を読んで、その通りだなと思ったことがある。ネットで発言をするには、それなりのしっかりとした知識の裏付けがなくてはならないからである。しかし、この時代はアメリカでもネットをやる人はまだ良質な人々だった。その後、ネットが当然のインフラになり、誰もがものを言うことができるようになると、フェイクや差別や憎悪が蔓延するネットになってしまった。今の時代は、誰もがニュースについて述べるようになった。誰もが情報を発信できるということが、世の中の言論を低下させることになっていった。劣化というか、これまでそうであったものが表面化し、流通するようになったのである。

 例えば、嫌韓についてである。大多数の人々が明治以後の日本と朝鮮の歴史を正しくきちんと学べば、嫌韓や反韓が主流になっている世論になるわけはない。ネットには近現代史の言及が多いが、それらは低レベルでバイアスがかかったものが多く、正しい歴史の理解や解釈に基づいたものではない場合が多い。

 ネット社会で必要なことは、「学ぶ」という個人の資質であり、教育体制の充実なのである。本来、ネット社会になるということと、教育体制の拡張は不可分の関係にあり、小学校から大学の教育もさることながら、学校を卒業した後も生涯にわたって学び続けるリカレントな教育環境をつくることが必要なのである。それがないと社会は、どんどん劣化していく。

 悪貨は良貨を駆逐するという言葉があるように、ネットの世界でも低レベルの発言が正しい発言を駆逐する。ネットは今や、この国が劣化していくツールになってしまった。

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August 12, 2019

れいわ新選組を応援したい

 今回の参院選は、戦後二番目の低投票率だったという。毎回の選挙の度に、結果が夜から翌日にかけて暗澹たる気持ちになるものであり、今回もまたそうだった。

 投票は選挙区、比例区、ともにれいわ新選組に投票をした。なぜ山本太郎を応援するのかと言えば、山本太郎が言っていることは「正しい」からである。今のこの国の政治において、山本太郎は最後の希望だと思う。

 枝野さんが立憲民主党を立ち上げた時、大いに期待をしたが、結局、立憲民主党は以前の民主党と同じような姿になっている。共産党は言っていることは「正しい」のであるが、無党派層は共産党には投票しない。共産党の強さは支持組織があるということと、共産党の言っていることが「正しい」ことがわかっている人が共産党に投票するということだ。政治をよくしらない人々、支持政党はないフツーの人々、政治に関心がない人々は共産党には投票しないであろう。共産党は、大規模な大衆支持を得るのは難しい。

 その一方で、れいわ新選組は無党派層を相手にしている。れいわ新選組の重要さのひとつはここにある。この国の大多数の人々は支持政党などはない、普段は政治に無関心な人々である。この人々に関心を持たせ、選挙で投票をするようにすることから始めなくてはならない。どれほど正しいことを言っても、無党派層の心に届かなくては投票にならない。投票にならなくては政治は変わらない。そのためにはどうしてもアジテーターが必要であり、ポピュリズムに踏み込まざる得ない。山本太郎はそれができる唯一の人だ。

 山本太郎を批判する人々の中に、山本太郎はポピュリズムであり、きちんとした論理基盤のある政策がないという声がある。しかしながら、もはやそういうことを言っている状況でないと思う。ポピュリズムであろうとなかろうと、右派のポピュリズムの上に成り立っている政権の国の未来の展望もなにもない状況を左派的なポピュリズムでひっぱたいて変える必要がある。

 上に山本太郎が言っていることは「正しい」と書いたが、必ずしもまったく正しいというわけではない。山本太郎は過激でラディカルなことを言っているのであり、そうしたことを言うことで考え直す機会が生まれる。

 消費税そのものを廃止することはさすがに暴論だとは思う。問題であるのは消費税があることではなく、その使い道が不透明で、当初言われていた全額が社会保障費に使われるという使い方になっていないということだ。そもそも、消費税を廃止するとどうなるのか、なにがどう困るのか。消費税を必要とするのならば、割合はどれだけが良いのか。使い方を監視するにはなにをどうすれば良いのか。そうした根本的なことが踏まえられておらず、ただズルズルと消費税制度があり、一方的に割合が高められているのが現状だ。ここで一度、ゼロから考えなおす必要がある。

 それでも消費税をなくして国家予算が足りなくなるのならば、これまでもそうしてきたように国債を発行すれば良いと山本太郎は言っているが、これは果たしてそれで良いのかどうか考える必要はある。いわゆる現代貨幣理論(MMT)には、数多くの問題点があり、とてもではないがこれが通るとは思えない。また、MMT論の論じる財政と日本の財政は同じではない。

 むしろ必要なのは、新産業の育成と雇用の創出だ。充実した教育と知識産業の創造である。このへんについては、山本太郎はあまり触れておらず、いわば緊急の措置としての富の再分配が強調されているが、その先のそもそもの富の創出については述べられていない。れいわ新選組は、これからこの分野の政策を深めていく必要がある。

 住宅を安くするということは、昔から大前研一さんが言ってきたことである。住宅を安くし、可処分所得を増やして消費を上げることが必要だ。奨学金の返済をチャラにするということも必要だ。教育の設備や質を高めるには時間がかかる。今すぐできることは奨学金を返済不要にして、若い世代の奨学金返済の負担をなくすことである。災害へ対策は中国・北朝鮮の脅威がどうこうということ以上に必要なことであり、今や国の安全保障とは軍事よりも災害対策の方が重要な課題になっている。

 山本太郎は、今回の選挙では自分の政党を立ち上げて強烈なインパクトを残した。2つの議席の獲得は、れいわ新選組は公職選挙法上での政党となった。山本太郎は自分の議席は失ったが、政党の代表として野党の党首会談や、幹事長会談、国対委員長会談、政調会長会談などに出て発言をすることができるようになった。つまり、これからテレビで、他党の党首・代表の前で、れいわ新選組の代表として発言が流れるということである。これまで街頭演説で語られてきたことが、テレビの視聴者へ流れる。これがこの先どのようになっていくだろうか。れいわ新選組を応援したい。

 

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August 04, 2019

映画『新聞記者』を見た

 少し前の日になるが、話題の映画『新聞記者』を見た。

 この映画は作品としては、わかりにくい。

 この映画を見るには、ふたつの前提がある。ひとつ目は、今の2019年の日本の政治とマスメディアの状況を理解していなければ、この映画の内容は理解できない。もうひとつの前提は、マスコミは権力と対峙しなくてはならない、マスコミは権力を監視し、その不正義を社会に告発しなくてはならないという意識があるということである。

 今のこの国では、政界と経済界とマスコミと学会の4つは結託と忖度と癒着の温床の場といっても良い。新聞社もまた、いち企業であり報道機関としての社会倫理よりも営利目的が優先されている。新聞は権力を監視するものであるべきだという。しかし、新聞社自身がいち企業である以上、スポンサーなり購買数なりを意識しないと商売として成り立たないということはある。

 また、数多くの分野が高度な専門知識で動いているこの現代社会をマスコミが監視するというのは困難であろう。読者もまた紙面の全部が調査報道や権力の不正弾劾記事になっていることを求めているわけではない。しかしながら、そうした記事がまったくなくても良いというわけでもない。

 情報テクノロジーが一般化した現在、政府も情報操作を行っていることは当然であり、政府なり官庁なりがフェイク情報を流すことはあるだろう。問題なのは、それがなにを目的としているのかということだ。

 安倍政権の「悪さ」とは、やっていることが国民全体の利益ではなく、特定の者たち、オトモダチだけの利益になっているということだ。もはや、利益とは国家全体の利益ではなく、特定の集団なり、組織なり、人々だけの利益しか得ることができなくなっている。この国の政府は、国民全体が豊かになるということを放棄したというか、そもそもどうすればそれができるのかまったくわからない者たちの集団になっている。衰退していく国では、全体のパイを増やしていくのではなく、減っていくパイの中で、いかに多くのパイを獲得するかが目的になる。

 この映画の最後のシーンで内調の多田が杉原に「この国の民主主義は形だけでいいんだ」という。このコトバは、今のこの国の政治状況を表している。なぜ、形だけでいいのだろうか。この場合における国とは、ある特定の組織や集団や人々ではなく、その社会を構成する大多数の人々である。「この国の民主主義は形だけでいいんだ」でいいわけがなく、形も内容もしっかりとしている民主主義でなければ国家として脆い。国民全体が豊かでなくては、教育にせよ軍事にせよ、なにもできなくなる。

 映画の後半での、政府が生物兵器を研究を目的とした大学を設置するという話の展開には、前半は緊張感があるリアリズムの話であったのに、突然、現実からかけ離れた話になってしまった。杉原が内調の官僚である自分の名前を出して良いというが、そもそもこの大学誘致については杉原は部外者であり関係がない。その官僚の名前がこの文書の真実性を保証するものとは思えない。この展開には、いささか拍子抜けしてしまった。

 しかし、もともと官僚が偽証しない、公文書を改竄しないということは当たり前のことなのであるが、この国ではその当たり前のことがなされていないという根本的な欠陥がある以上、こうした話の展開もありだとは思う。

 この映画が扱っている題材はいうまでもなく、森友・加計問題だ。森友にせよ加計にせよ、いわばちっぽけな出来事である(だからといって正しいことではないことは当然であるが)。問題なのは森友・加計そのことではなく、本来行うべきことをせずに、森友・加計程度のことしかできないということだ。これらは新聞記者が真実を暴くというようなレベルの話ではない。

 暴くもなにも、森友や加計がおかしいのは当たり前のことであって、さっさと責任者を処罰して終わりにしなければならない。総理大臣だろうと誰だろうと責任をとっととらせて、進むべき方向へ進んでいかなくてならない。それが、そうならない。この程度のことを、官僚が命をかけて内部告発しなくてならならず、新聞記者が暴かなくてはならない。

 映画『新聞記者』が映画としてはおもしろくもなんともないのは、ようするに、もはやこういう状況なのだということである。それを表現している作品として、この映画は価値がある。

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