December 28, 2019

香港を考える

 香港について、ぼんやりと考える。

 1997年7月、香港は中国に返還された。返還された先の中国とは、中華人民共和国である。

 もともと清朝の版図であった頃や大英帝国の領土だった時の香港の人々は、これほど自由や民主主義を唱える人々ではなかった。それがかくも自治の意識を持つようになったのは、今の中華人民共和国の政治スタイルのためではないだろうか。大清帝国も大英帝国も、香港に対しては、いわば「ゆるい」統治を行い、支配体制への直接的な反抗をしないのであるのならば、およそなにをしても関知しない支配だった。ところが、今の中国政府は香港を大陸中国に同質化させようとしている。香港がこれに抵抗するのは言うまでもない。

 香港は、香港でなくなることに抵抗しているのである。思えばかつて大日本帝国は、日韓併合をして朝鮮の人々を無理矢理に皇民化させようとしたが、その同じようなことを大陸中国は香港に対してやろうとしている。日本を行ったこの誤りを、中国も繰り返そうとしている。

 今の中国には、かつての清朝や大英帝国のような統治ができない。清朝は満州族が建国した帝国である。漢族とは異民族である彼らは、漢族の帝国であったそれ以前の中華帝国の資産を継承することについてこれを尊重し、清は漢族の文化の国でもあることに努めた。中国とは異質な文化の集合体であり、異質なものを異質なものとして受け入れ、なおかつ帝国としての統合性を保つことが、実は中国という広大な大地を統治することにおいて最も重要なことであることを、遊牧の異民族である彼らはよく知っていた。

 今の中国がこうした統治形態をとることができない理由を簡単に一言で言うのならば、そもそも中華人民共和国という国の建国の理念にはそうしたことが入っていないからだ。習近平の言う中華民族の偉大な夢というビジョンは、かつての戦後日本の高度成長期の社会ビジョンとさほど変わることがない。

 清朝の次の支配者である大英帝国については言うまでもない。極東の遠いアジアのことなどよくわからず、大英帝国の植民地の要であるインドと比べると、統治しているのかどうかもさだかでない極東の植民地が香港であった。

 香港にはこの歴史的な「ゆるさ」がある。そして、今消えようとしているのが、この「ゆるさ」の中で育まれてきた様々なものだ。民主派は自由と民主主義という理念を求めるが、親中派は経済的安定と繁栄を求める。確かに理念だけでは、人々は生活をしていくことはできない。しかし、その一方で香港が香港でなくなり、大陸と同化してしまうことを望む香港人は大多数ではないだろう。

 だからといって、香港にせよ台湾にせよ、民主派・反中国派の政治勢力が主流になってしまうのは危険である。民主派と親中派の双方がいるのが、あるべき姿であり、そのバランスの上に立って北京と対等に渡りあえる指導者が出てくるのが望ましい。香港は香港であるが、同時に中国の香港でもあることは否定できない事実なのである。

 そのためには、反中でなければ親中でもない。民主主義の香港でありながら大陸との良好な関係を保つ「一国二制度」の本来のあるべき姿とは、このようなものであるという思想なりビジョンなり政策なりが必要なのである。それを作り出し得るかどうかに、今後の香港の行く末があるのだろう。

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November 24, 2019

「中国化」する世界

 今日11月24日の東京新聞の【社説】「週のはじめに考える ミイラ取りの未来」は興味深いものだった。

 社説は次の文から始まる。

「三十年前、中国の経済規模はまだイタリアの半分ほどでした。それがどうでしょう。その後、飛躍的成長を遂げ、二〇一〇年には国内総生産(GDP)で日本を抜いて、今や世界第二位の経済大国。大ざっぱに、まずは安い賃金と豊富な労働力が国外からの投資を引きつけた「世界の工場」として、さらには巨額のインフラ投資と国内消費の伸びに支えられた「世界の市場」として、グローバル経済に確固たる地位を築いたのです。」

 中国はこの先どうなっていくのかということについて、あの広大な国土で、今の共産党一党独裁体制がこのまま続いていくわけはないという声が多い。非民主主義国である、言論の自由はなく、人権が無視されていることは、経済成長と共に解消されていくであろうというのが数多くの声であった。

 ところが今現在、そうはなっていない。これほど中国経済が巨大になっても、中国は依然として共産党一党独裁体制の国である。民主主義であることや、言論の自由があることや、あらゆることにおいて人権が厳守されるということについてほど遠い国である。

 それは「西側」に責任があると東京新聞の社説は書く。

「一つは「西側」に責任がありましょう。経済発展の援助をカードに、民主化を促す策を放棄した節があるのです。「金に目がくらんで」と言えば言い過ぎだとしても、「世界の工場」をせっせと利用して低コストの恩恵をむさぼり、「世界の市場」の購買力に耽溺(たんでき)するうち、人権状況などを批判する口数は減り、民主化を迫る声が小さくなっていった感は否めません。」

「西側」の政府や企業は、中国でビジネスを進めていくことや中国と提携して事業を行っていく上において、民主化や人権問題には目をつむってきた。経済のグローバリゼーションの話と正義や倫理の話は別扱いになっている。

 そして社説はこう書く。

「結果、独裁的体制と強大な経済力が併存する大国が出現したわけです。それどころか、議論や手続きに時間もコストもかかる民主的体制より、独裁的体制の方が競争力を持つ面もあらわになってきているのですから、やっかいです。」

さらに重要なことは東京新聞の社説が言うように、いわゆる自由主義諸国、アメリカやヨーロッパや日本などの国々で「市民的自由や多様性や寛容などの価値観減衰、民主主義の退潮」が見られるようになったということである。

 社説はこう書いている。

「しかし、あらためて「西側」に目をやると奇妙なことにも思い当たるのです。
 米大統領は人種や宗教による差別的言動を繰り返し、批判は「フェイク」呼ばわりしてメディアを攻撃する。自国主義に耽(ふけ)り、経済力と軍事力を誇示して多国間の協調やルールを傷つけています。
 わが国の宰相も民主主義の基盤たる国会での議論を軽んじ、異論を敵視する傾向が明らかですし、一方で、与党政治家の街頭演説をやじっただけで警察に排除されるといったことも起きています。また、欧州で台頭するポピュリズム・極右勢力には排他主義の主張が目立ち…。
 どうでしょう。総じて「西側」の中で、市民的自由や多様性や寛容などの価値観減衰、民主主義の退潮が見て取れないでしょうか。」

 「西側」諸国は、今や国家が国民を監視し統制する社会になりつつある。ようするに「中国化」しているのである。そして、この「中国化」に対抗しているのが、実は中国の内部の香港に若者たちなのであると書く。

「「西側」は中国を変えようとして変えられなかったばかりか、中国を利用し依存し続けるうち“中国的”に変質させられ始めている-。そう見えてならないのです。脅威というならむしろ「こっち」が「あっち」の色に染まりかけている点に、より切迫した脅威を感じます。このままだと、私たちの未来は…ミイラでしょうか。
 今、最も鮮明に、言論の自由、法の支配など民主主義を守るべく必死で「中国化」に抗(あらが)っているのが、他ならぬ中国の内部、香港の若者たちであるというのは皮肉といえば皮肉です。彼らを孤立させるわけにはいきません。」

 これはまったくその通りであって、我々は今、ある側面において、中国やロシアや北朝鮮と変わらない国に向かいつつある。どのような政治形態の社会であっても、社会というものは放っておくと国家体制による統制された社会になる傾向がある。そうなっていくということは、国家権力や社会体制の必然なのである。だからこそ、国家や社会を広く客観的に見る視点が必要なのである。なぜ社会には自由や多様性や寛容が必要なのか、という基礎中の基礎の根本的な認識が著しく衰退した世の中になっている。

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September 15, 2019

ネットはこの国が劣化していくツールになった

 ネットが普及をして誰もが発信できるということが、これほど世の中を劣化させるとは思っていなかった。もともとインターネットは、全米の大学や研究所をつなぐ通信網だった。いわば科学者や技術者たちの通信技術だった。彼らがネットを使ってなにを会話しているのかと言えば、当然のことながら自分の仕事のことであり、それは学術情報であり、科学であり工学であった。いわばある決まった枠内の中で、ある水準以上のコミュニケーションが行われていたのである。

 インターネットが一般社会に公開された初期の頃は、このネット観の延長線上にあり、社会全体が高度な知的付加価値をもった情報の発信を誰もができる世の中になると思っていた。発信できるということは、価値のある発信をするということであり、それは価値の発信を創るということだったはずだ。

 しかしながら、そんな世の中にはならなかった。

 かつてアメリカでネットが本格的に普及し始めた頃、人々は本をよく読むようになったという記事を読んで、その通りだなと思ったことがある。ネットで発言をするには、それなりのしっかりとした知識の裏付けがなくてはならないからである。しかし、この時代はアメリカでもネットをやる人はまだ良質な人々だった。その後、ネットが当然のインフラになり、誰もがものを言うことができるようになると、フェイクや差別や憎悪が蔓延するネットになってしまった。今の時代は、誰もがニュースについて述べるようになった。誰もが情報を発信できるということが、世の中の言論を低下させることになっていった。劣化というか、これまでそうであったものが表面化し、流通するようになったのである。

 例えば、嫌韓についてである。大多数の人々が明治以後の日本と朝鮮の歴史を正しくきちんと学べば、嫌韓や反韓が主流になっている世論になるわけはない。ネットには近現代史の言及が多いが、それらは低レベルでバイアスがかかったものが多く、正しい歴史の理解や解釈に基づいたものではない場合が多い。

 ネット社会で必要なことは、「学ぶ」という個人の資質であり、教育体制の充実なのである。本来、ネット社会になるということと、教育体制の拡張は不可分の関係にあり、小学校から大学の教育もさることながら、学校を卒業した後も生涯にわたって学び続けるリカレントな教育環境をつくることが必要なのである。それがないと社会は、どんどん劣化していく。

 悪貨は良貨を駆逐するという言葉があるように、ネットの世界でも低レベルの発言が正しい発言を駆逐する。ネットは今や、この国が劣化していくツールになってしまった。

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