June 04, 2017

アメリカのパリ協定離脱

 トランプ大統領は1日午後、地球温暖化対策の国際な枠組みである「パリ協定」から離脱すると発表したという。

 以前、2006年頃から、温暖化はないとか、温暖化はウソだとかいう声が数多く聴かれるようになった。いわゆる、温暖化懐疑論・否定論である。最近、そうしたものをほとんど目にしなくなったように思う。あれは一体なんであったのであろうか。

 人類が文明を構築し始めてから現在に至るまで、地球環境の及ぼした影響は膨大なものであり、特にヨーロッパで発生し、後に全人類規模に拡大した産業革命以降、人類の活動により二酸化炭素(CO2)等の温室効果ガスが大気中に増加し続けてきたことは疑う余地のない自明のことである。ようするに地球温暖化懐疑論・否定論の人々は、この人類の文明史の営みを否定するものであり、非科学的であることを通り越して、ただのバカなのであろう。

 よくある温暖化懐疑論・否定論の中に、現在、地球は温暖化しているのではなく寒冷化しているのであるという声がある。なにをもって、またどのような地域とタイムスパンの現象に基づいてそういっているのかを調べると、寒冷化しているとしても局地的な現象であり、全地球的規模で温暖化しているという地球温暖化に対する反論になっていない。ここで基礎的なことを言えば、地球全体が温暖化することにより、ある地域では寒冷化することはある。重要なのは、気候がこれまでとは違う姿になるということであり、地球温暖化と気候変動あるいは異常気象は深く関連している。

 にもかかわらず、当時は「こんなに寒くなっているのだから温暖化などあり得ない」とかった程度のレベル低い話が多かった。たとえ全地球的規模で寒冷化がこれから起こるのであるとしても、1万年のオーダーで言うのならばその可能性はあるかもしれないが、地球温暖化は現在ことをいっているのであり、1万年後の先の話をしているのではない。地球温暖化への懐疑論はもはや成り立たないのである。

 そうこうしているうちに、いつの間にか、地球温暖化は当然のことであるかような世の中になったようだ。あの産経新聞ですら3日の「主張」で冒頭に「米国が地球環境問題で示す2度目の不誠実である。身勝手に過ぎる振る舞いだ。」と書いている。あのいつも対米従属の産経が、だ。

 今日では、地球温暖化は社会的に確定した事実であるといってもいい。であるのならば、この合衆国大統領はなぜパリ協定からの離脱を述べているのか。トランプは、温室効果ガス排出量削減による経済活動の制約や途上国への温暖化対策の支援、さらには中国の温室効果ガスの排出増やインドの石炭生産増加は認められている(べつに「パリ協定」はこれらを認めているわけではない)ことへの不公平感を述べている。ここに一貫として見られるものは、「パリ協定」に従うことで、自分たちは不利益を強いられているという考え方である。

 「パリ協定」の目標は、今世紀末までに人類の活動による温室効果ガス排出量を実質ゼロにすることである。これが可能であるのだろうかというと、かなり難しい目標であると言わざるを得ないが、それでもとにかくこれを目標として掲げている。

 この目標を支える倫理的な基盤として、温室効果ガスを多く排出しているのは、人類社会の一部の国々であるのに、異常気象による被害を被るのは温室効果ガスを多く排出している国々だけではなく人類社会全体であるということへの憤りのような心情がある。気候変動で最も深刻な被害を受けるのは、海面上昇により国土がやがて水没してしまう小島嶼の国々や、干ばつにより深刻な食糧不足になるアフリカの国々なのである。こうした人々の生存権や人権を奪ってまで、先進国は温室効果ガスを排出し続ける権利はない。逆から言えば、地球温暖化は、それほど事態が深刻になってきたということなのだ。この倫理は「気候正義」(Climate Justice)と呼ばれている。

 21世紀になり、ようやく人類は、環境問題において国ではなく、人類というひとつの集合体で繁栄や生存を考えるようになってきた。日本ではそうではないが、欧米ではこの倫理はかなり浸透している。

 もう一つは、大量の温室効果ガスを排出しなくても経済成長を可能にする、低コストで安定性のあるクリーンエネルギーの技術が実用化され始めてきたということが挙げられる。テクノロジーの進歩が「脱炭素」(decarbonization)を可能にすることができるようなったということである。石油や核廃棄物を生み出す原子力に変わる、新しいエネルギーの研究開発に各国の政府や民間企業が関心を持つようになってきている(なぜならば、「脱炭素」のテクノロジーは石油や原子力に変わる新しい利権になるからである)。

 これからのエネルギー政策を考えると、いやでも「脱炭素」を無視することはできない。どちらが儲かるのかという話になった場合、「脱炭素」の方が儲かるということになれば産業界は雪崩のように「脱炭素」に舵をきるのであろう。

 実際のところ、今回、トランプが「パリ協定」から離脱するといったところで、なにがどう変わるわけではない。発効から3年間は離脱通告ができないなどの規定があるため、アメリカが実際に離脱できるのは、トランプの大統領任期終盤の2020年11月頃になるとのことである。次期大統領選挙では、トランプが決定したアメリカの「パリ協定」の離脱の是非は争点のひとつになるであろう。

 もちろん、だからと言って楽観視することはできない。つい最近まで、温暖化はないとか、温暖化はウソだとかいうことを言っている人々はいたのだ。今、そうした声を聴かなくなったのは、(何度も繰り替えすが)地球温暖化は社会的に確定した事実になったからであり、温暖化懐疑論・否定論者たちが科学をきちんと理解できるようになったからではない。デマゴーグに扇動される者たちはいつの時代にも存在する。その意味では、地球温暖化への対策とともに、アメリカの大統領がこういうことを言う世の中であるということが危機的なことなのである。

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May 20, 2017

共謀罪が採決された

 昨日の19日、共謀罪の採決が衆院法務委員会で強行されたという。

 国が衰退していく時、時の政府は、どうでもいいことや、やらなくていいことをやり、本当にやるべきこと、やらなくてはならないことはやらない。

 「共謀罪」が一般国民を捜査対象とするのか、しないのか、が問題なのではない。なにをもって「一般国民」とするのか、しないのかが明確になっていないのが問題なのである。

 これは「組織的犯罪集団」を取り締まるという法律ではなく、なにが「組織的犯罪集団」になるのかは明確にせず取り締まるという法律である。なにが「組織的犯罪集団」になるのかは、取り締まる側の解釈で決まる。だからこれほど揉めている。

 本来、なにが「組織的犯罪集団」になるのかは法律で決まる。公に公開されている法律で決まるから、取り締まる側も取り締まられる側も法を元に犯罪の有無を決定されるのである。ところが「共謀罪」では、なにが犯罪になるのか明確になっていない、取り締まる側の判断でどうにでもなるという法律である。

 こういう法律がなぜ成立されようとしているのか、さっぱりわからない。さらにわからないのが、なぜ大多数の人々は、自分たちは「共謀罪」と関係ないと思えるのだろうかということである。カードやスマホの使用記録やネットの書き込み、監視カメラのデータなど、現代の社会では我々は様々なところで記録されている。そうした個人データと、いわゆる「組織的犯罪集団」の可能性とが結びつく可能性は極めて高い。少なくとも、絶対にないとは言えない状況になっている。自分個人がなにをどう思っていようと、「一般国民」とは見なされないことが、もしかしたらあるかもしれないという懸念を持つという一般常識がないのであろうか。

 また「共謀罪」について、日本国内での外国人のテロ対策がどうこうと言っているが、日本の公安はイスラム過激派について、例えば言語ひとつをとってみてもアラビア語やベンガル語などでテロ犯罪の計画を分析・調査する能力がない。国際的な情報収集機能を持っていない。あくまでも、日本人テロリスト集団に対して捜査能力を持っている組織である。もし国際的なテロリストへの対応を本気でしようとするのならば、それ相応の根本的な組織変革が必要なのであるが、それまでやる気がないらしい。であるのあらば、なぜ「共謀罪」が成立すればテロ対策は万全であるのかのような雰囲気になるのであろうか。

 これは、新安保条約とよく似ている。自衛隊の装備や組織の根本的な改革をしなくては、とてもではないが外国と戦う軍隊にならないのであるが、そういうことはせず集団的自衛権があればそれでいいみたいなことになった。「共謀罪」も同じであり、「共謀罪」が成立すればテロ対策ができるというわけではない。ところが、新安保は中国・北朝鮮の脅威への対策のためである、「共謀罪」はテロ対策のためであるという根本的に間違った認識がまかり通っている。「共謀罪」はテロ対策のためのものであるかのような話は、今になってとってつけた話であり、テロ対策にもなんにもならない。今、本当にやらなくてはならないことは、他に山のようにある。こんな法律を作っている場合ではないのだ。

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May 14, 2017

国連が「慰安婦」日韓合意見直しを勧告した

 昨日の13日の産経新聞の産経抄。韓国の文在寅大統領は11日の安倍首相との電話会談で、慰安婦問題をめぐる日韓合意について「国民の大多数が、心情的に合意を受け入れられないのが現実だ」と言ったことについてこう書いている。

「自国民の感情を、どうして他国が無条件に尊重すると思い込めるのか。それが国と国との公の約束より重いという発想は、どこから来るのか。」

 ここまではっきと、こうしたことを臆面もなく述べるということに驚いた。いかにも産経らしいというか。大日本帝国は滅び日韓併合がなくなってから70年たったというのに、なぜこうしたことを韓国に対してまだ言っているのであろうか。

 二つ理由があるであろう。

 ひとつめは、日本はかつて朝鮮を植民地にしたという歴史がある、ということである。なぜ侵略をした側の国の政府は、侵略をされた側の国民の感情を尊重することをしないのだろうか、ということである。

 この、他国の人々の感情を、尊重とまではいかなくても「知る」ということが日本人は不慣れである。大日本帝国の朝鮮統治は、朝鮮社会の多額の国家予算を投入して、インフラを整備し、殖産興業を行い、教育や医療を充実させた。その一方で、朝鮮の人々の感情においては、徹底的に逆撫でをし、恨みを買うことをやってきたと言わざるを得ない。一例を挙げれば、日本は朝鮮総督府を李氏朝鮮の王宮である景福宮の敷地に置き、光化門を(破壊するつもりであったが、日本の文化人らからの反対運動があり北へ)移築した。このことは李氏朝鮮から長く続いてきた景福宮の景観を変えることなり、朝鮮の人々の心情に屈辱感となってその後も長く残った。こうしたことが、GHQによるアメリカの占領から70年たっても、まだ、というか、2000年代以降、さらに強く対米従属を続けている日本人には理解ができていない。

 上記の産経抄の文を、戦前風に書けば、なぜ日本が朝鮮人の感情を尊重しなくてはならないのか、ということであり、朝鮮人の感情など尊重しない、と言っているのである。ここに、大日本帝国の朝鮮統治の思想と同じものが如実に表れている。本来、他民族の社会を統治するには、その人々の心情を巧みに操作する必要がある。なるべく恨みを買わないように統治しなくてはならない。そうした高度な他民族統治の能力を日本は歴史的に持っていない。

 ふたつめは、国民の大多数が心情的に受け入れられない「合意」をなぜしたのか、ということである。国民の大多数が心情的に受け入れられない「合意」であるのならば、政府は変更すべきではないのか。

 国民の心情などというものよりも、国の公の方が重いものという考え方そのものが、極めて日本的な特殊なものであることがなぜわからないのであろうか。

 さらに言えば、この従軍慰安婦の日韓合意は、韓国の国民の大多数は受け入れていないことは十分にわかっていた。もちろん合意を認めたのは韓国政府であるが、こうなることを知っていながら日本側はなぜ通したのであろうか。

 ここで、戦後日本のアジア諸国への戦争賠償の政策ついて考えたい。

 戦争の賠償は、その国の民間組織や国民に対して行うのではなく、その国や政府に対して行うのが日本の基本姿勢であった。インドネシアにも、フィリピンにも、ベトナムにも、ミャンマーにも、そうしてきた。このていで、乗り切ってきたのである。

 ところが韓国の場合は、これで終わりにはならなかった。朝鮮は高麗王朝以来、古代からの文明国であり、14世紀から20世紀に至る李氏朝鮮の文化伝統と国民気質をもった国は、植民地として統治するのにも困難が伴ったが、独立後もそう簡単に過去の恨を忘れる国ではなかった。李氏朝鮮の時代、宗主国である中国の中華秩序は、中国よりも強固で絶対的な朝鮮のイデオロギーであり続けた。このため、東の夷である日本に従わざる得なかったことは、歴史的な屈辱感として民族の記憶に深く根付いている。

 朝鮮にとって日本への恨みは、他のアジア諸国とは別種のものであるとさえ言ってもよいだろう。日本側から見れば、他のアジア諸国はそれなりに戦争の「謝罪」を受け入れてくれたのに、朝鮮(韓国)だけは、そうはなってくれないということになる。

 日本の嫌韓の人々にとって、韓国は手に負えない国、国交断絶すべき国、消えて欲しい国であると思っているのは上記の理由による。ちなみに、中国における反日感情は、朝鮮(韓国)におけるそれとは歴史的に違うものであるが、ここでは中国については触れない。

 そして産経抄は、最後にこうしめくくる。

「「韓国にはやっぱり、民主主義は無理なんだよ」。かつてある政府高官が漏らしたセリフである。」

 ようするに産経新聞というか、保守メディアやネトウヨ一派は「韓国にはやっぱり、民主主義は無理なんだよ」なのである。このへん、戦前の朝鮮差別の心情となんら変わっていない。今回の朴槿恵政権を退陣に追い込んだのは、その是非はともかくとして、今の韓国は十分に(民主主義すぎるほど)民主主義であったと思うのであるが、こうした人々はそうは思わないらしい。

 民主主義が無理な状態になっているのは、今の日本である。明治の自由民権運動は国権主義に変わっていったし、大正デモクラシーの政党政治も、結局は世界恐慌による経済不況の中で消滅してしまった。そして、戦後、GHQの指導による民主主義が行われた。それも70年で形骸化してしまった。民主主義社会が、民主主義社会であるためには、憲法の文言がどうこうではなく、民主主義社会であろうとする人々の意思と行為が必要なのである。王権を打破し、革命によって民主主義になった国の国民はこのことを知っている。それがこの国にはない。日本には民主主義は無理なのかもしれない。

 産経の黒田記者は、13日の紙面のコラム「ソウルからヨボセヨ」でこう書いている。

「最近の朝鮮半島をめぐる軍事的緊張に関連し「日本では子供でもこんな雰囲気です」と知らせてきたのだが、韓国とのあまりの違いにうならされた。韓国の子供にはそんな雰囲気はまったくなかったからだ。日本で子供までも戦争を心配しているのは、日本ではテレビを中心にマスコミが今にも戦争が起きるかのように“危機”をあおったせいだと思う。

 万一に備えるのが国の安全保障であり危機管理は最悪の場合を考えるものではある。しかし戦争は地震と違って人為的なものだから一定の情報や経験、分析で「起きるか? 起きないか?」はある程度分かる。とくに長く「北の脅威」にさらされてきた当事者の韓国人は経験的に判断する。」

 このように、黒田記者は北朝鮮がどうのこうのと騒いではいない韓国の姿は当然だとしている。そして、日本について「日本人は逆にその経験がないから慌てふためくということかもしれない」と書いている。まったくその通りだ。

 案の定というか、当然というか、慰安婦問題をめぐる日韓合意について、国連の人権条約に基づく拷問禁止委員会は被害者への補償などが不十分として合意の見直しを勧告する報告書を発表した。日韓両政府に対して「被害者の補償と名誉回復が行われるように尽力すべきだ」と強調しているという。

 産経新聞はこれを「誤った情報に基づく勧告に日本政府は強い不快感を示している。」と書いている。このように、国連が日本について至極当然でまっとうなことを言うと、常に「誤った情報に基づいている」というのが今の劣化した保守の常套文句である。外国は日本について間違った認識をしている。コレコレの情報が伝わっていない。国際社会に事実を伝え、抗議も含め対処すべきである、というのがおきまりのパターンだ。他国の歴史や文化を学ばない。他民族の心情を理解しようとしないのである。

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